ノータイム
そういえば、とよぎったのは目の前に濃い影がさした瞬間で、もっと以前には、と考えをつないだときには唇がふれていて、かわすあいだで頭を切りかえられるだけのまえおきが、と思いだすころにはぬれたものが歯列を割りひらき、しのびこんでいる。
腰の横へつかれた手に手をかさね、からむ舌で酸素をうばいあいながら、無為にベッドをあたためていたほんの数十秒前までを回想する。とおい眠気をたしかめたまぶたのうらへふいに、マグカップになみなみとつがれたホットミルクの像が浮かんだ。きりのいいところまですすめたいと言って書きものをしている恋人のぶんと、ならんだふたつの湯気を連想すると、そのイメージはただの眠気の呼び水から、たちまち率先して実行すべき名案にかたちをかえる。照明を落とし、ルームシューズにむかって爪先をすべりこませたところで、自分のものではない足音を聞いた。顔をあげるのと同時に、廊下にのびるあわい月光をせおったシロナさんが、寝室の扉をうしろ手にとじた。
しっかりと映像が流れるのはそこまでだ。焦点は青じろい暗闇をものともせず彼女の瞳に合い、そうしていまは、もう具体的にどうとは言わないけれど、こう。
もっと以前は——キスで中断した考えのつづきをたぐって思いおこす。いろんなものを合図にした。たとえば鼻先の温度をまぜあいながらまなざしをからめる、くすぐるようにそえられる指に頬をすりよせる、おとがいへかかった手にうながされるままうえを向く、そういう堅実なひとつひとつを。
言葉や行動でかたどるものを必要としなくなったのは、いったいいつからだろう。あいまいな記憶をたどってそれかける意識を、「なに考えてるの」という彼女の声が本流へ引きもどす。
こういうとき、いつもふしぎな思いにつつまれる。このひとの声はたとえどんなにひそめられていたとしても、なにものにもさえぎられることなく、まっすぐわたしのところへたどりつくから。
もちろんこのときだってそれは同様で、境界をおびやかしあっていた唇が紙ひとえ程度はなれた実感も、至近距離からの吐息がぬれた表面をなぞる冷感も、なにもかもはるか後方へ置きざりになる。視界をまっしろに染めるほどのいきおいではじまったかと思えばスイッチでも切ったみたいにかくんと降りやむ、夏の夕立のようだった口づけ、そんな余韻をいま、声音はすこしもまとわないのに。
「なにも」
「うそね、ぼーっとしてた」
「じゃあ、当ててみてください」
「……あたしのこととか」
元来そういうたぐいのことを臆面なく言えるたちのひとではないから、自分で言っておいてばつがわるくなったんだろう。すぼまっていく語尾にならっておよぐ目線がおかしくてかわいくて、鎖骨をこするやわらかい髪がくすぐったくて、つい吐息で笑った。どうにか「はずれ」だけ言うと、ごまかすようにふたたびかさねられた唇のあいだ、「です」が溶けきえた。
恋人の首に腕をまわし、重心を背後へ寄せる。かたむいたからだをささえるためではない手のひらが背中を撫であげる。ひとりぶんかるくなりかけていたベッドのうえにふたりぶんのおもさで舞いもどるよりもはやく、ごく微小な指のうごきだけで、ナイトブラの金具がしずかにつながりをほどく。リビングから玄関までの最短距離を知っているみたいに、その一連にも服の裾から差しいれられた手がたどる道すじにも、いっさいよどみはない。
急転直下でもつれこんでいくのに抵抗をおぼえるだとか、心の準備をさせてほしいだとか。
たしかに存在したはずのそんな段階や感情は、かえりみればうしなわれてひさしいのだ。意思もなくゆれた視線が尾と尾をかすめあう、手の位置をずらした拍子に指がふれる、いつしかたったそれだけの、しぐさや接触とも呼べないあいまいなできごとを火種にできるようになってしまった、わたしたちのあいだからは。
ときにゆるしを乞い、あたえるのに似た会話があったことを思いだす。——してもいい。なにをですか。言ってもいいの。いいですよ。うわべだけでささやきあう言葉が、すでに燃えはじめているおたがいの熱をよけいに焚きつけた。いつからだろう、それさえも必要としなくなり、いまやわたしたちの視線や肌は音もなく出会っては、際限を忘れて温度をあげる。
だからひとこともかわさないまま、胸の底はまたたく間に熱でみたされていくのに、「じゃあ正解は?」と降る例の声が、うっとりと目をとじて暗闇に沈みこむのをゆるさなかった。雨の最初のひとつぶにまぶたを打たれたように、顔ごと目線をあげた。
「まえは、ん、合図とかきっかけみたいなもの、あったなあって」
「ああ、目を見たりとか」
「ちが……っ、もっとはっきり、したの」
「そうだった?」
「そうでしたよ、ね、ちょっと……」
ふたりでいるあいだはずっと意識の中心にあるのだから、あなたのことをあらためて考えたりはしない、考えるまでもない。
そんなつもりで口にした「はずれ」がどうやらなにかべつの意図にとられたのだと、いまさらさとる。彼女はぐずぐずにしたわたしに決定的なことを言わせたがったり、息を吸おうとした拍子に一番奥まで突きたてたりするときの、このひとにしては意地のわるい色をふくんだまなざしでわたしを見おろしながら、点々と的確に火をともしていく指をかたときもやすめてはくれなかった。
けれど非難がましく考えるくせ、べつにいやだともやめてほしいとも感じていない自分を知っている。その感情のありかを、さぐるまでもなく見つけている。からだのはしばしまでがおぼえているのだ。このひとがキスのむこうになにをするのか、わたしがその感触をどう受けとめるのか。くりかえし観た映画のせりふやシークエンスのつらなりが記憶にきざまれていて、結末までとどこおりなく脳裏にえがけるように。
だって。
「そういうの、まだ必要?」
追おうとするわたしを突きはなした彼女の唇が、鼓膜へ直接ささやきを落とす。質問のていをとっていても実態はそうじゃないとわかって、わたしもこたえるのをやめる。
だってもう、言葉や手順をかさねるいとまさえもおしい。焦げついてひびわれそうなほどの渇望をあまくうるおす、その先がただほしい。一秒、一瞬でもはやく。
もう合図も言葉もいらない。そう伝えるかわりに、毒がまわったようにおもたい頭をかたむけて、恋人の唇にかみつく。
(プライベッターより)
ポーラースター
氷点下九度に満たない気温、無風、快晴、適度な湿度。
条件が完璧にととのいそうだとおしえてくれたのは昨晩おそくの天気予報だったから、都合をつけるのに連絡をかわし、日中の予定を消化してキッサキのはずれへ着くころには、時計の針がほとんど二巡を終えようとしていた。
先んじておなじ地点へ降りたち、ほうぼうへ歩きだしたものと思しい無数の痕跡のなかから、海辺へ向かうひとつをえらんでたどる。きめこまやかな雪の感触を靴底におぼえながらすすむうち、道しるべはひとつ、またひとつと数をへらしていく。街なかのあかりやざわめきもおよばない埠頭への石段を下りきった先、岸壁でこちらに背を向けて夜空をあおいでいる、足あとの終点を見つける。
歩みよるさなかに周囲をうかがっても、ほかの影はなかった。あと数歩をつめないままひとつ息をつき、白いもやが空気にほどけきってから「待った?」と問いかけた。
ひとびとのいとなみの気配は、バトルゾーンへの定期船らしい一隻からかろうじてただよう程度だ。その一隻もだいぶはなれたところで、明朝の出港にそなえてしんと眠りについている。
ちかづく足音に気がつかなかったはずはないし、声がなにかにさえぎられてとどかなかったのでも、自分への呼びかけととらえなかったのでもないだろう。ただ視線をそらすのがなごりおしいというような緩慢さで、ヒカリちゃんはこちらへ向きなおった。目が合うと音もなくほほえんで首を横に振り、肩にまばらに散った氷のつぶを、むきだしの指先でぴんとはじいた。
「お先に、ひとりじめしてました」
そう言う彼女の、街灯のたもとに立つすがたをすっぽり囲み、ゆっくりとそそぐ粒子の柱がある。一瞬よりもみじかいはざまに、群青色の海にも淡黄色の月光にも乳白色の明かりにも、足もとの青ざめた雪にさえ由来しない未知のいろどりをきらめかせては、おなじ速度でひるがえって影のなかにかききえた。
——ダイアモンドダストは複数の条件をみたしたとき、水蒸気が急速に冷却され、雲になるよりもはやく氷のつぶになる現象です。本来観測には明け方がもっとも……
——あすのキッサキシティは大気の状態からいって一日じゅう、非常によい環境です。時間をとわず、高い確率で観測が見こめるでしょう……
ふだんは無骨なばかりの埠頭が、一転してスノードームへ変じたように幻想的なシーンの背景に、気象予報士が昨晩流暢にのべた解説がながれる。
それを途中でフェードアウトさせてしまうと、のこった距離をつめ、右の手袋をはずしてヒカリちゃんへさしだした。彼女が降りそそぐ細氷のなか、二度のまばたきにつづけて「忘れちゃった」と照れわらいをするので、あたしもつい、つられて笑った。
「ここに来るのに、しかもこんなに冷えるのに、忘れる?」
「だって昼間、家を出たときはそこまでじゃなかったのです」
キッサキの、冬もふかまったこの時期の気候は街の名どおり、身を切りさいて芯をつらぬくようなするどさをはらむ。とくにダイアモンドダストの発生条件さえみたすこんな夜は、地元ジムリーダーの口ぶりをまねるのではないものの、おとずれるのに気合いをいれないではいられない。
あたしもシンオウでうまれシンオウでそだっているのだ、より緯度のひくい地域に住まうひとびとにくらべれば、寒冷な気温へそれなりに適応している自負はある。けれど日中の気温に合わせた素手のまま、夜のキッサキに平然と立っていられるなどとは軽口にも言えないし、そもそも日中であっても手を外気にさらしながら屋外を歩くなんて、可能性さえ考えたくない。
もしも寒さへの耐性に素質があるとすれば、彼女のそれは飛びぬけているといっていいだろう。
「というか、これ。わたしに貸したら、シロナさんが寒くなっちゃいます」
「素手でいるの、見てるほうが寒いもの。片方だけでもちがうと思うから、ね」
「わたし、しばらくこのままでいましたし、あともうすこしくらいだいじょうぶですよ」
「だいじょうぶなつもりでも、風邪っていつのまにかひいてるものでしょう。ヒカリちゃんがそうなったら、あたしはかなしいなあ」
「……ありがとうございます」
ようやく受けとられた右がわだけの手袋から、やりとりのあいだにのった氷のつぶが払いおとされる。自分の肩へそうした際よりもずいぶんていねいにそのしぐさを完遂したヒカリちゃんは、満を持して手袋にいれた手のひらを頬のたかさで何度か開閉してみせ、「平気だと思ってたけど、やっぱりあったかいです」とほほえんだ。
ありがとうございます、ともう一度のこしてくるりと海へ向きなおる彼女を追い、正面へまわした右手が、彼女の右手にとらえられてつつまれる。あたしは手袋をのこした左手で、おなじようにする。二秒ほどかかっておたがいにおさまりのいい位置を見つけると、そろっておもてをあげた。そうして細氷の降りしきる夜空をしばらく、会話も忘れてながめた。
天をみたす星がいっせいにこぼれおちてくるようなとめどないきらめきは、まるで世界がはじまったときからたえずそそぎ、世界がおわるそのときまで降りつづけるようであるのに、その実目にできるのはいりくんだ条件がすべてととのう、ごくかぎられた日だけなのだ。
こうして今日をつかまえるまでに季節はいくつもかわり、めぐった。ふたりで見にゆきたいと、そう言いだしたのがあたしたちのうちどちらで、いつのできごとだったのか。こたえは記憶の底に沈んで、きっともう浮かびあがってこない。
「……きれいね」
——あるとき無意識に落とした感嘆へ、ヒカリちゃんから同意の声がかえった。それからさほど間をおかず、そういえば、と会話の継がれる気配があったので、腕のなかへ視線を向けた。
「待ちあわせ場所、こまかく決めてませんでしたよね」
「そうね」
「だから、ついたら連絡がくると思ってたのですけど。わたしがここだって、どうしてわかったのですか?」
「んー。そういえばなんでかしら、見つけちゃった」
「やだ、訊いてるの、わたしなのにー」
「だって。わからないんだもの」
笑われて笑いかえすけれど、実際あたしのなかのどこをどうさらっても、存在しないのだ。時間のみを突きあわせ、詳細な合流地点を決めないまま到着した目的地で、無数の足あとからなんの変哲もないひとつを道しるべに選びだし、なおかつその決定にまよいもしない。そうした一連の行動の理由を、ヒカリちゃんに言葉で説明できるだけの根拠は。
だからかわりに、夢想する。そうして、期待する。
どこにいても見つけられる、かつてそれを夜空にさがした旅びとたちへすすむべき方角をしめした、ひとつの星。あたしにとって、彼女自身が目じるしとなっていればいい。どんなに寄る辺ない場所に立ってもけっして見うしなわない、かの星のように。
「……だったらもう、どこにいても見つけてくださいね。いっそのこと」
そんな考えをなにも知らないはずのヒカリちゃんが、おさまりきらない笑いをふくんだまま言う。語尾の余韻が消えると、ダイアモンドダストが地面の雪に、街灯の傘に、あたしたちの肩にふれて落とすささやきだけが、あたりにひびく。
いまは言葉にしなくても伝わるような心地がするから、あたしは彼女を抱きこむ腕とにぎった手のひらにちからをこめて、ただ笑った。
言われるまでもなく、見つけてあげる。
どこにいても。
(Twitterより)
ラブ・ユー・テンダー
目じりに沿わせたウェットティッシュがつめたかったのかこそばゆかったのか、おぼつかないうごきでヒカリのまぶたが持ちあがる。上下のまつげがはなれきるまえに再度ふせられると、手を止めて数秒待ってもそれきりだった。彼女にまぶたをあけさせた感触がなんだったにせよ、まどろみをつらぬいて夢のなかまでとどくほどの芯はなかったらしい。
月あかりを受ける青じろい顔のうえに、きわだって白く点々とのこるすじをぬぐいとり、役目をおえたものを放る。ごみ箱の底へ落ちる音を聞くのに、手首のスナップへかたむける意識も、放物線の先への目視もいらない。ベッドのこの角度からなにかを投げる場合にかぎり、あたしはおそらく家主のヒカリ自身よりも、ごみ箱の位置とそのなかへとどかせるためのちから加減にくわしい。
正面に垂れてシーツに落ちた髪を肩のうしろへ流し、目をさましてほしいようなほしくないような、奇妙な配合でまざりあう気分を指の背にのせる。すきまなく閉じたヒカリのまぶたをそっとなぞると、うすい皮膚の下方からこぼれるひかえめな呼吸が、やわく手首を撫でかえした。
すう、すう。すう、すう。
上掛けからのぞく鎖骨の上下と連動するそのリズムが、一定の深度をたもって浮上も沈下もしないまま、ひたすら規則ただしくつづくのをたしかめる。それからだれへ向けるのでもない、しいていえばこの夜へのため息をついた。
布地にあさく噛みこんだファスナーを直そうと必死になって、うまくいかずよけいに傷口をひろげていく。そんな夜だった。化膿して増していくいたみから目をそむける、そんなふうに肌を合わせた。
べたついた全身も涙のあともきれいにぬぐってしまって、外見だけはどうにか取りつくろってある。それでもたしかにろくでもない夜だったのをあたしは知っているし、身もこころも擦りへらせて枯らしきり、意識を手ばなすも同然に眠りに落ちた恋人のぶんまでも、皮膚にきざむようにして仔細をおぼえていた。
ときおり、こんな夜がくるのだ。先ぶれの足音も合図のノックもないままおとずれるそのとばりのなかで、あたしたちは急に言語をみだされ言葉が通じなくなったように相手のことがわからなくなり、目のまえにいるはずの相手を唐突に見うしなったように、おたがいを探しあう。
自分の指先も見えない暗闇でありもしない出口をめざすような行為は骨ばかりおれて、そのくせ不毛で、もちろん今夜だってくたくたに疲弊していた。ヒカリはいうにおよばず、あたしもまた。
ああ、ほんとうにろくでもない。
心の底からそう吐きすてたい気分なのに。うんざりしているのに。
すべてがおわったシーツのうえでこうしてひとりになるとき、あたしはきまって不毛でろくでもないこんな夜を、身もこころもささくれだたせるこんな夜を、それでも二度とおとずれてくれるなと願うほど厭ってはいない自分に気がつく。そうしてそのたび同時に、いま正体もなく泥のように眠る恋人に泣いてほしいと思っていた、かつての自分を思いだすのだった。
ごみ箱の位置も、ベッドからそこへなにかを放る際の適切なぐあいも、まだあたしの手にはなじんでいなかった。服のしたの肌がどこから順に熱をあげていくのか、どころか唇の感触さえ知らなかった、そんなころのことだ。ヒカリが好きで、いとおしくて大切にしたい。その感情を置いた胸の中心のおなじ位置へ、たしかに彼女に泣いてほしいと、相反するものをならべていた。
きっと友人だったころは泣くすがたなど想像できないほど泰然としたところのあったヒカリが、恋人になってからはそういった根幹の部分を完全に捨てさりはしないまでも、ときおりまるで幸福な夢がさめかけているのに気がついたような、切ない顔をするようになったからだ。あたしがそうさせているのだという高揚が、あるいは未知の表情をもっと見たいという好奇心が、そのために嗜虐心じみたいびつなかたちであらわれでたのではないか。
いたい思いも、かなしい思いもしてほしかったはずがない。ないというのに気のせいにしてしまうこともかなわない、目をそむけようもないほどふかく根を張ったうしろぐらい思いを、当時のあたしはそう解釈した。自己嫌悪をおぼえているあいだにもヒカリとすごす月日は立ちどまることなくすぎてゆき、しだいに泣いてほしいという思いは胸のうちにその輪郭を見かけることもなくなり、やがて年月によって希釈され、いつしか痕跡さえのこさず消えさった。
それがきまって、いまここに再度生じたような鮮明さでよみがえってくる。あのころ知らなかったものたちにかこまれ、あのころどんなに見たくてもかなわなかったものを月光がしらじらと照らすこんな夜に——ひとつの発見をともなって。
たぶんかつてのあたしは、ヒカリに泣かないでと言うために、泣いてほしかったんだろう。
手のひらにのせた砂が風に吹かれてこぼれおちていくのをながめるように、大事なものが目のまえからうしなわれていくのになすすべもない、そんな表情でいたあのときの彼女が、もし涙のひとつぶでもこぼしていたなら。これは夢ではないのだと、たとえ目がさめたあとできみがいやになってもつづくのだと言って、目じりをぬぐってやれたはずだから。
あのころとはなにもかもかわったような気がするのに、あのころとかわらず伝えたいことをなにひとつ伝えられないまますれちがう夜のなかで、いまさらそれだけがわかる。どんなにながいあいだとなりにいて、どんなにからだがおとなになっても、いまだにいつかくる夢の終わりを妄信しておびえている子どもの寝顔をまえに、なんの言葉もとどかせることのできない無力さを知る。
くたびれたこころのまま、ささくれだったやりかたでしか目じりをぬぐえないこんな夜が、いずれまたおとずれるのにちがいない。あと何度かわからない、きっと数えきれないほど、何度も。
それでも、かわかない涙はないのだと思う。あんまり月並みな言いまわししか浮かばないから笑えもしないのに笑ってしまうけれど、明けない夜もおなじように。
そのさまはどんなに泣きそうになっても泣かなかったヒカリが、たとえよろこばしいかたちではなくともいつのまにか泣けるようになったり、彼女に泣いてほしかった理由を、先の見えない夜のなかであたしがいつしかさぐりあてていたりするのと、どこか似ている。すくなくともあたしにはそう感じられる。
いまはどこへもたどりつかない思考へ最後のとばりを引くために、肺にのこった息を吐きつくす。肩がおおきく上下した拍子、指先が硬質な感触をおぼえた。使いおえたきり放っておかれて所在なさげにファブリックの波間をただよっていた、ウェットティッシュのケースだった。
ベッドをおりないまま、上半身をのばしてナイトテーブルの定位置へしまいこみ、体勢をもどす。一連の動作の最中、そういえばこれもかつてはここになかったもののひとつだと、ぼんやり考える。
抱きあったあと、おたがいの全身や手を清めるためにいちいち寝室を出ていたあたしの背中を、枕に頭を横たえたヒカリが目で追うのを見た。なんとはなしに振りむいた際の、たった一度きりだ。
けっしてなんの具体的な言葉もつくりはしなかった、そのうえまばたきに切られて一秒にもみたない数瞬しかたどれなかった視線が、それにもかかわらずさみしいだとか行かないでだとかいう声をともなって、脳裏からはなれなくなった。だからなにも言われないし言わないまま、ベッドのまわりだけですべて完結させるようになった。いつしかあたりまえになっていたから、そんな経緯もすっかり忘れていた。
ヒカリの頬へ手のひらを置く。ふう、と一度呼吸がみだれる。つつむように曲げた指へそっとすりよってくるそこを、今夜はじめてのおだやかな気持ちで撫でながら、ちかごろは意識にのぼらなくなっていたくらいにちいさな変化さえ、取りこぼさないようにひとつずつ数えあげていく。
いまはまだとおく見えない先、最後のひとつまで数えきったときには、夜が明けるように涙がかわくように、おぼえずなにかがかわっているのではないか。
そう期待せずに、願わずにはいられないから、あたしはこんな夜のなかでひとり、夜あけを待っている。手にふれるひややかにかわいた肌の持ちぬしが、目をさましても終わらない夢に気がつく日を待っている。
(プライベッターより)