もう恋はしない
よどみなくキーボードをたたいて書きものをすすめるシロナさんの背後で、シンガーの名前とタイトルを読みあげるだけの簡素な紹介からはじまったイッシュの曲を、ローテーブルに置いたポケッチが歌いあげている。
やわらかく落ちついた旋律が、あたたかい春の午後によく合う。そう好感をもってすぐ、この歌はきっと恋を歌っているのだ、と直感的に思った。
日常会話くらいならまだしも、メロディにのせられた単語を聴きとり、そのうえ歌詞として意味をかみしめられるほど、わたしはとおい海のむこうの言葉に耳なれてはいない。それでもある種の確信をもったのは、もしかすると女性シンガーの、だれかへささやきかけるようにひそやかな色をおびた、甘い歌声のためかもしれなかった。
恋だ。愛ではなく、恋。
だれに向けるのでもないのに、なんとはなしに強調してから、いましがたの恋の歌という形容を愛におきかえるのは、なぜだかしっくりこない、と思う。意味の似かよっているようにも感じられるふたつを、わたしはどうやら無意識のうちにつかいわけているらしいけれど、その区別はいったいどこから生じているのだろう。
気づいたついでにあらためて考えてみれば、恋愛という熟語がその順序に落ちついた理由も知らない。たしか哀憐という言葉があった気がするから、かなしみあわれむ、方向性のちがう熟語と音がかさなってしまうのをさけるかたちで定着したとか? 自分で考えついておいてなんだけれど、この説はけっこう説得力のあるような。
とりとめもない考えをぼんやりとめぐらせながら、名前も知らないたくさんの楽器たちがいろどる甘やかなメロディラインに聴きいるうち、歌はフェードアウトし、あとに優美な余韻をのこして終わる。そうしてスタジオの音声がもどってきたとたん、わたしがわからなかっただけでどうもそういう内容が歌われていたのか、パーソナリティが「そういえば恋と愛のちがいってなんでしょうねえ」などと話しはじめるので、ついひとりで目をまるくしてしまった。
もちろんパーソナリティの思いつきとわたしの考えとが奇跡的にかみあったように感じるのは、たとえ偶然と呼ぶにはすこしできすぎたタイミングであったとしても、ただの錯覚にすぎない。わかっているとはいえおどろくのをとめようもないから、おどろくしかないだけで。
なにげなくもらしたつぶやきをリスナーがひろい、たくさんの反応をとどけてくれている。そう言って、パーソナリティがうれしそうに紹介をはじめる。どんな見解が聞けるのか興味があったので、書きもののじゃまにならないよう音量をすこししぼっていたラジオへ、そのままでもじゅうぶん聞こえはするのだけれど、いちおう耳をちかづけた。
「……『恋はしたごころ、愛はまごころ』、うん、よく聞きますね。聞くたびによくできているものだなあと感心しますけど」
言われてみれば聞いたことのあるような、ないような気のするそんな話につづけて、いくつかの意見が読みあげられる。恋は追いかける相手に振りむいてほしいと願うぶんだけ、相手の変化をのぞむ。よくもわるくも自分本位で、ときに衝動的なものではないか。ひるがえって愛は対象のありのままを受けいれ、変化をもとめない。いつくしみ、つつみこみ、相手のためになやみ考え、思いやる……。
総じて恋よりも愛のほうが範囲のひろく、ふかい情をあらわすという見かたが大勢を占めるようだ。そこまで聞いてある程度納得しかけたところに、すこし間をおいて、もうひとつあたらしい意見がつらなる。
「……『恋愛は、恋を先に書き、愛をあとに書くだけあって、恋からはじまり、愛へとかわるのではないでしょうか』。ははあ、なるほど!」
パーソナリティの感嘆に思わずかさねそうになった声を飲みこんで、わたしはモニターに向かうシロナさんを見た。
先にあった恋が、愛へかわる。それは目からぽろりとうろこが落ちるような解釈だった。なるほど愛が先にあって恋があとにくるということは、熟語のうえでも感覚のうえでもおこりにくい。そしてわたしたちのあいだにかぎって言えば、たしかな事実として恋が先にあったのだから。
まだ旅をしていたころ、わたしのなかではじまったもの。
シンオウじゅうを歩くあいだにあたためられ、かみくだかれ、衝動的というにはあまりにも念いりな準備と期間を経て、わたしのなかにそれは根づいた。とおく思いだしてなつかしさに目をほそめられるのは、どんな紆余曲折があっても、結局のところはシロナさんに伝えたからだ。一時期そうしたほうがいいのかもしれないと考えたとおり、かかえたまましずかに枯れさせたなら、きっとこうして実感するよしもない。わたしに彼女の背中を追いかけさせた恋がいつしかうしなわれ、かわりにどうやら愛へかわったらしいことを。
愛のために、わたしはたとえ書きものの終わりを待つあいだに退屈していても、彼女の袖を引きたい衝動をあくびといっしょに飲みこむし、書きもののさまたげにならないよう、ラジオの音量をさげさえするのだ——彼女をいつくしみ、思いやっている、だなんて自称するのはいかにも恩きせがましいうえにばかげている気がして、わざとそんなことばかりあげつらねると、自分でそうしたにもかかわらずあまりのちっぽけさにふきだしそうだった。
唇に指をあててどうにかこらえるのと同時に、シロナさんがデスクチェアを引いて立ちあがる。ながれるように振りかえり、ほとんどポケッチに顔をくっつけながら笑いをこらえているわたしを見とめて、ちいさく首をかしげた。
「そんなにおもしろいこと言ってるの」
ふしぎそうなしぐさそのままの声で訊ねられたので、問いかけへの肯定だか先ほど中断したパーソナリティやリスナーへの同意だか不明瞭に、とにかくぶんぶんとかぶりを振る。彼女は後ろ手にキーボードの左横をさらい、コーヒーのはいっていたマグカップのふちをつかむと、きょとんとした表情のまま「ふうん」と言った。
「もうそろそろきりのいいところなんだけど、とりあえずコーヒー、淹れなおしてくる。おかわりはいる?」
「い、いりませ、ありがと、ございます、ふふ」
「そうとうおもしろい話みたいね? 気になるから、あとでおしえてよ」
ローテーブルのうえでほとんど飲まれないまま冷めていこうとしているわたしの紅茶から、湯気がよわよわしくただよう。苦笑にちかく笑ったシロナさんは言葉どおり早足に部屋のいりぐちへ向かい、そのあゆみがおこした微風にゆられて、湯気がうすく白いベールをかけた。
あのころ追いかけた、いまはすぐに手のとどくようになった背中に。
ドアのむこうに消える彼女を見おくりながら、もどってきた彼女はどんな顔をするだろう、と想像する。
もうあなたに恋はしていません、と言ったら。
愛しているので、恋はしていません、と言ったら。
(Twitterより)
ベイビー・ドント・クライ
一瞬うろたえ言葉につまってからあたしを見あげたヒカリちゃんの瞳に、にぶい色のきらめきがはしった。とっさに頭の向きごと逃げかける視線をむりやり押しとどめ、反射と直感にさからって群青色の水底をのぞきこむ。まばたきひとつだけをはさんでおさまった波紋のむこうから、この場ではなにも起こっていません、と主張したがるまなざしがまっすぐ気丈にあたしを見つめかえした。
そういうことにしたいのならそれでいい。そう考え、彼女からすればおそらく『やっと』目をそらしたながれのまま、惰性でリビングの上方を振りあおぐ。ちょうどいい位置にあった壁掛け時計をやはりなんとはなしにながめながら、そもそも時間なんて気にかけてはいないから、注意はたえず彼女のほうへ向けていた。糸のようにほそい金色の秒針がみっつすすむと、あたしの意図を知るよしもない恋人のちいさな顔は、視界のすみでようやく緊張をゆるめた。
泣かない。これではまだ。
表情の推移をのがさずとらえたあたしの胸中、おびただしい数引かれた線のどれよりも先にあらたな線が一本描きくわえられる。ここまではたしかめた、この先はまだ。そんな境をしめして線は暗闇にあわく光をはなつ。いましがたのぞいて消えた涙にも似て、発色はごくにぶいものだった。
謙遜するのではなく、感動に身を打ちふるえさせるようなことを口にしたつもりはない。彼女を傷つけかなしませるようなことなんてなおさら、自己弁護をするのではないが考えつきもしないし、根本的に涙の出る幕がある話はこびだったとも感じていない。あたしたちは直前まで、ほんとうにただおたがいのつぎの休日をすりあわせ、すりあわせたその日をどこでどうすごそうかと相談していただけだ。恋人同士としてそうしていたけれど、仮にあたしたちの関係が友人にとどまっていたとしても、あれぐらいのことを話す機会はあっただろう。むろん、もしかしてと予感するだけではなくある種の期待をいだいて言葉をえらんだ、それは否定しないけれど。
はじめは気のせいだと思った。つぎに偶然だと感じ、それからうぬぼれた妄想だと恥じいった。その段階を越えてさらに先へすすむと、もはや事実としか考えられなくなった。一般的な恋人たちがあたりまえにかわすだろう会話、つづいていく関係を前提にしたやりとり。そういうものにふれるたびヒカリちゃんは泣きそうになって、けれど決して涙をこぼさず平然を取りつくろう。いくつかの感情のいりまじった色が彼女の瞳の底を光らせては、涙になってあふれることなくかわいていく。
——あたしが、そうさせているのだった。出会ったころから年のわりに落ちついていて、あたしに恋をつげたときでさえそんな態度をくずさなかった、泣くどころか取りみだすシーンだってどうにも想像できない相手だったはずの、彼女を。
事実とさとったところでどうすればいいのかつかみあぐね、そんな切実な受けとめかたをするほどのことだろうかともてあましてとまどっていた、その程度におさまっていたころはまだよかった。きっと、彼女にとっては。
もともと用もなかった時計を視界から追いだしてゆるやかに彼女へ向きなおり、唇にひとさし指をそえる。
「あたしはそうだなあ、正直、どこでもいいかも」
「……どこでも」
「だって、どこでもたのしいと思うの」
意識してなげやりさをよそおった一回目の『どこでも』でうっすらと生じた不安げな翳りが、意識して声音を切りかえた二回目で彼女の表情から消えさる。かくされたのではなく吹きとぶように消えたと見てとったから、あたしは顔をかたむけて彼女のまなざしにわけいった。目が合うと、だめおしのつもりでほほえみとともにつけくわえた。
「ヒカリちゃんとだったら」
恋愛小説の一節をなんのひねりもなくそらんじるような、ひどく陳腐なせりふだ。それなりに気はずかしかったが目はそらさない。まばたきひとつでかくされてしまう波紋のように、まばたきひとつのあいだにおわってしまうかもしれないそのときを、絶対にのがしたくはなかった。
喉が——あたしではなく彼女の喉がこくりと、不随意の脈動のようなかすかなうごきを見せる。息と息以外のなにかが気管をとおって気管の奥ではないどこかへ飲みこまれたのがわかって、また胸のなかに線がはしる。ここまではたしかめた、この先は。ここまでなら彼女は泣かない、それなら、どこまでいけば。
気のせい、偶然、うぬぼれた妄想。どれかひとつにでも当てはまっていたのならよかったと思う。もてあましてとまどっているままにしておければよかったのにと思う。こうなる前、恋はどんなかたちをしていたのだったか。
名前をさがしていた。彼女の瞳をにぶく光らせる感情に名前をつけて、正体をつかみあぐねる自分のなかでたしかな輪郭に落としこみたかった。途中で見つけた困惑や恥じらいを道のわきにそっとよけては、より適切なラベルがあるのではないかと、根拠のない確信をもってもとめつづけた。
そうしてよろこびという名前を見つけ、同時にそれを自分がもたらしているのだと知ってしまった瞬間。やわらかなかたちとあざやかな色を持っていたはずの恋が、変質したのを自覚した。境を知りたい、その先を見たい、そんな欲求を芽ばえさせた胸のなかに最初の線が引かれ、あたしをたしなめるようにほのぐらくにぶい色に光りはじめた。
出会ったころから年のわりに落ちついていて、あたしに恋をつげたときでさえそんな態度をくずさなかった、泣くどころか取りみだすシーンだってどうにも想像できない相手だったはずの恋人。彼女が、泣きそうになる。あたしのためにそうなる。あたしが、そうさせる。
「どこにいってもたのしいと思います、わたしも。……シロナさんとだったら」
そう言うヒカリちゃんの言葉を甘いと、涙をこらえてぎこちなく笑顔をつくる彼女がけなげでいとおしいと思う。そんな恋人をあたしのせいで泣かせたくはないのに、あたしのために泣いてほしいと願っている。その瞬間を目にしたらみたされると知っている。矛盾なく存在するふたつの感情を見つける前、恋がどんなかたちをしていたのか、あたしはもう思いだせない。
(Twitterより)
リーブ・ユー・ビハインド
波音のすきまから耳がひろいあげたものはあまりにかぼそかったので、それが聞きまちがいや空耳ではないと気づくのにも、音が声になり、声が文字になり、ひとつづきの文字が自分の名前になったと知るのにも、ほんのすこしだけ時間が必要だった。
晴れているともくもっているともつかない、ぼんやりした夜だ。ためいきのようにかすかな夜風にそよぐカーテンが、室内へしのびこむ月あかりに濃紺の波紋を生んでいる。
風にゆられてひとすじだけまぶたにかかった髪を指先ではらいのけると、そっと背中を浮かせた。窓外の波とおなじように寄せてはかえす眠気をとらえきれないまま、ずっと体重をあずけていたヘッドボードから。声の出どころを——となりで早々に寝いってしまったはずの恋人を見おろすために。
シーツに波うつまだらな暗がりから、思いのほかまっすぐ視線をぶつけてきてわたしをたじろがせながら、そのひとは唇をうごかす。まなざしとは裏腹に舌ったらずな言葉は「よかった」と、どうにかそう読みとれる。
なんですか。
あからさまに寝ぼけているらしいひとの言葉を、それでもただの寝言だとはらいのけられないからそう問いかける。上体をかたむけ口元へ耳を寄せると、はたしてそのしぐさが伝わっているかどうかもさだかでないたどたどしい発音が、息つぎの音もさせず「どこに」と鼓膜をふるわせた。実際にそうしたかどうかは死角で見えなかったけれどまばたきひとつだけの時間をはさみ、言いながら無意識にふだんの口調を思いだしてきたのか、いくぶんなめらかに「行っちゃったかと思った」とつづいた。
よかった、どこに、行っちゃったかと、思った。
ひと単語ずつくぎって反芻した言葉を、わたしの頭はぜんまいのきれかけたオルゴールみたいにぽろぽろととりこぼしていき、ほどなくして完全に回転を止める。
再起動のきっかけは音だった。彼女が眠気の引力か現実の重力か、とにかくなんらかの力に負けて枕へ墜落する、ぱさりというかわいた音。語尾の余韻をかきけしたそれにスイッチを押されたように意識をとりもどし、まっさきにわたしが注力しなければならなかったのはこみあげる笑いをこらえることだった。唇をかんでも足りないから結局あきらめて、肩をふるわせながら彼女のとなりへもぐりこみ、うつぶせになってシーツに口元を押しつける。
意味のあるこたえがかえらないのをわかっていても訊ねたかった。ずっと、こんなにそばにいたのに、と。ほかでもないあなたがほかでもないわたしに、どうしてそんなことを思ったのですか、と。
どうにか笑いが引き、ふたたびベッドのうえにもどってきたしずけさへ、ふいにぎこちなく不規則な衣ずれがわりこむ。
腰骨のあたりへぬるくやわらかい感触がのったので、音の正体はすぐに知れる。彼女のあたたかい手はおぼつかないうごきでわたしの背中を撫で、どこをめざしているのだろうとようすを静観するうち、やがて肩甲骨の隆起をのりこえて頂点にたどりついた。衣ずれとおなじリズムでひとつずつまるまっていく指が肩の骨をくすぐった。
寝間着ごしにもわかるくらいに、そこまでやってこられたのがふしぎなほどに芯のない腕と手だ。たとえ置かれた場所に沿ったかたちでまるまっても、なにかをうながすためには決定的に意思が欠けている。ましてや、抱きしめているだとか抱きよせようとしているだとか表現するには。
なのにどうしても、無視したり振りはらったりすることができない。寝ぼけている彼女のたどたどしい言葉を、それでもただの寝言だと聞きながせなかったように。
ひじをついて身をおこし、あらがいがたい力に引きよせられでもしたように距離をつめる。腕はそれを待っていたみたいにのろのろとわずかばかり、しかし明確にわたしの肩へかける力をつよめたので、直前まで必死に笑いをこらえていたのも忘れて、なんだか泣きだしたいくらい感傷的な気分になってしまう。
唇のはしをゆがめながら、せばまった可動域でせいいっぱい腕を持ちあげて、恋人がこの家での寝間着にしているシャツのすそを握りしめた。その行動がどうやら彼女の意識になんのゆらぎもあたえないらしいと見てとり、規則的に上下する胸元へもぐりこむ。首とおとがいとをつなぐ曲線につむじをこすりつけみても、やはりなんの反応もない。おおきな声を出したりゆさぶったりする決心はつかないくせに、目をさましてくれたらいいのにと期待して、今夜の天気のようにどちらともつかないしぐさばかりをくりかえす。
家を出ていく朝。ひとの足だけではとうていたどりつけないとおい場所へ向かう背中。置いていくのはいつもあなたで、置いていかれるのはいつもわたしなのだ。
いまだって、あなたは。
シーツの波間へわたしを置きざりにして、ひとりで夢の世界へ行ってしまう。忘れがたくはらいのけられない、あとを追わずにいられないぬくもりだけを残して。
音にならず、声にならず、ただの文字の並びでしかないまま、言葉は浮かんだそばからほどけていく。すりよせてはなれた前髪をゆらす吐息の間隔が、不可逆的にひろがっていくのを感じる。ずるいなあ、そんな考えも背後の窓の外へ追いやり、緩慢に目をとじる。
一度だってしたことがないし、これからもきっとしない。あなたを置いて、あなたが見うしなうようなどこかへ行ったりなんて。
決意というほどのつよさも誓うというほどの熱量もなかった。ただふたたび、それもこんどこそ完全に寝いってしまったらしい恋人に聞いてほしいと、聞かせられたらいいのにと思った。
すぐそばでちいさくなっていく寝息に、自分の呼吸音を溶けこませようとする。とおくから眠気のさしのべてくる手をとりながら、明日目をさましたときにはきっと言える、なぜかそんな予感がした。
(Twitterより)