ユーフォリア

 ラジオから流れてきたタイトルコールで、もう三時をまわっていることに気づいた。
 ジムをめぐる旅をしていたころ、街から街へ歩くあいだのBGMがわりにずっとラジオを聞いていたので、タイムテーブルはすっかり頭に入っている。やわらかい口調の男性パーソナリティの、222番道路に大量発生したエネコについてふれるオープニング・トークを聞きながし、読みかけの本に栞をはさんでソファから立ちあがる。
 廊下を通って突きあたりのドアをすこし開け、室内をうかがった。デスクに向かう背中の主は、先ほどわたしがこの書斎へきたときからほとんど姿勢を変えないまま、規則ただしいペースでパソコンのキーボードを叩きつづけているようだった。中へ入って近づいていってもこちらを振りむいたりはせず、そもそも気づいているのかどうかさえあやしいものの、反応を求めるつもりもないので気にはならない。
 肩ごしに、タイピングの邪魔にならない位置に置かれたマグカップをのぞきこむ。中身は空になっていて、それどころかしばらく前に飲みほしたのだろう、底でコーヒーがかわいてしみになっていた。
 カップを持ちあげ「いれなおしちゃいますよ」と言うだけ言ってみれば、続けざまにうなずく声がふたつ返ってくる。まるで反応があるようだけれど、これは集中していてなにも耳に入っていないときの空返事だ。そのままカップを持って部屋をあとにする。
 リビングへ戻ってきて、はたと一連の動きがあまりにもなめらかすぎることに思いいたった。
 慣れすぎていて、これじゃあまるで流れ作業だ。とはいえこうしてシロナさんの家を訪れたとき、なにかしらの作業に没頭している彼女の集中がとぎれるまで時間をつぶす、そんな流れに慣れているのは事実なので、だからどうだということもない。
 慣れというなら、飲めないコーヒーを淹れるのもそうなんだろう。キッチンでマグカップを洗ってお湯をやかんで沸かしながら、ぼんやりと思う。
 沸騰したお湯をコーヒーポットとカップに移して、すこし待つ。カップをあたためるためでもあるし、なにより沸かしたてのお湯をそのままそそぐと、コーヒーの香りが飛んでしまうらしいのだ。
 このあたりはシロナさんの受け売りというか、あのひとが自分でコーヒーを淹れるときにしていたことを見よう見まねでなぞっているにすぎない。けれどこの手順を守って淹れたコーヒーは、口にしないわたしでも深く吸いこみたくなるくらいに香りたつので、実際に飲むとなれば歴然としたちがいがあるのだろうと、想像にかたくはない。
 芳醇な湯気を立ちのぼらせるコーヒーをトレイにのせて、もう一度書斎へ向かった。やはり一心不乱にパソコンと相対しているシロナさんの手元からすこし離れたところにカップを置き、「わたしもお茶、もらいますね」と声をかける。先ほど耳にしたばかりの空返事をふたたび聞いて、リビングへときびすを返した。
 勝手知ったるなんとやらでティーバッグとマグカップを取りだし、コーヒーに使ったお湯の残りをカップにそそいであたためておく。
 やかんに水を足して火にかけ、沸くのを待っていると、にわかに廊下から足音が聞こえてきた。振りかえったら、わたしが持っていったばかりのマグカップを片手に、呆然とした表情のシロナさんが顔をだす。うわの空のままカップを持ちあげて、淹れなおしてあるのに気がついた、そんなところだろう。
「いらっしゃい。……いつきたの?」
 ばつが悪そうにそう訊かれて、視線をそらして考えた結果、二時間はその範疇に入れてよいと判断して答える。
「ちょっと前に。きたときに一応声、かけましたよ。本借りますねって」
 ああ、だかはあ、だかの長く大きいため息をついたシロナさんが、額を指でおさえながらこちらへやってくる。
「またやっちゃった。ごめんね。ヒカリがくるまで、書きかけのをすこし進めておこうと思ったら、つい……コーヒー、ありがとう」
「気にしないでください。わたしだって、午後にお邪魔するとだけで、時間まで言わなかったですから。あ、ありがとうございます」
 話す間に音を立てはじめたやかんの火を止めて、シロナさんはキッチンの天板にもたれる。紅茶を用意するわたしの手元を一瞥し、コーヒーに息を吹きかける合間に「そろそろ買いたさなきゃね」とつぶやいた。
 なにをとは言わないまでも、残り少なくなったティーバッグのことだとわかる。シロナさんは家ではコーヒーしか飲まない。だからこの家で紅茶のティーバッグを消費するのはコーヒーが飲めないわたしだけで、それが買いたされるのはつまりわたしのために他ならない。
 たとえば渡された合鍵だったり買いおきしてくれるようになった紅茶だったり、あるいは来客を忘れて書きものに没頭するようになった家のあるじそのひとだったり、この家に何度も通ううち、慣れたり変わったりしたものはいくつもある。そしてそういうものはこれからも増えていくのかもしれない——そんな想像はわたしをむずがゆいようなそわそわするような、なんともいえない気分にさせる。
 紅茶に砂糖とミルクを入れ、使いおえたものを洗って片づけていると、シロナさんが空いた手にわたしのマグカップを持って書斎へ戻るそぶりを見せた。キッチンタオルで手をふきながら、その背中に向かって声をかける。
「あれ。気が散るでしょうし、こっちで待ってますよ。本も読みかけだし」
「近くにだれかいたほうが、ここまでにしなきゃって区切りをつけやすいのよ」
 顔だけこちらを振りかえり、つい五分前までわたしがいることに気づいていなかったひとが、そんなことを言う。
 わたしが思わず笑うと、シロナさんは「どっちにしても、区切りがつくほど進んでないけどね」と肩をすくめて廊下へ消えた。
 さて。残されたキッチンでひと息ついてどうしたものかと考え、リビングのテーブルの上で閉じたままになっている本のもとへ歩いていく。一瞬迷って、男性パーソナリティの声を流しつづけるポケッチも一緒に手に取った。
 本日四度目に訪れる書斎の扉は、四度目にしてはじめて開けはなたれている。ラジオの音量を下げてから中に入ると、シロナさんがパソコンに向かったまま片手を上げた。ちゃんと気づいている、というアピールなのだろう。それにまた笑って、わたしは書斎のソファに腰かける。
 この待ち時間はそう長くならないだろうと思ったので、本は開かなかった。ミルクティーが飲みやすい温度になるのを待ちながら、音量を落としすぎて遠いさざめきのようにしか聞こえないラジオに耳をかたむけていると、案の定十分と経たないうちにシロナさんがうめくような声をあげて、デスクチェアから立ちあがる。そのまま自分のマグカップを持ってこちらへきたかと思うと、わたしの横にすとんと座りこんだ。
「ああ、もうぜんぜんだめ。今日はいさぎよくあきらめるわ」
 マグカップをローテーブルに置き、座った拍子にずれたクッションの位置を直しながら、なげやりな口調で言った。
「あんなに集中してたじゃないですか。えっと、嫌味ではなくて」
「集中と成果が必ずしも釣りあうわけじゃないのよねえ。一行進んで二行戻って、三行進んで二行戻って、ずっとそんな感じ」
「どこに出すものなんです?」
 シロナさんはうつろな顔で、リーグ関係者が持ちまわりでコラムを載せている、とある月刊誌の名前を答える。わたしと直接関係するわけではないものの、偶然にも数週間前、ネタが浮かばないと頭をかかえるスズナさんの執筆を手伝ったばかりだった。あれの順番が、今度はシロナさんに回ってきたというわけだ。
「考古学のことを書いてるんですか?」
「いや、ちがう……というか、ちゃんとテーマを決めないで見切り発車で書きだしちゃったから、こんなふうになってるんだけど。どうして?」
 わたしはあるじのいなくなったデスクに目をやった。
 あちこちから中身を取りだされて隙間だらけになった作りつけの本棚と、机のうえでいくつも山を作っている文献に、開きっぱなしのノート類。パソコンのモニターのふちはカラフルかつ大小さまざまなサイズの付箋だらけになっている。
 二時間前、机まわりの状況を目にして、てっきり論文でも書いているのかと思っていた。けれどここにきて没頭していたのが雑誌のコラム執筆だとわかり、なら自身の得意分野をテーマにしたのかと推測しなおせば、それもちがうという。きっとテーマに悩みながらあれこれ取りだして広げたのを、そのまま放ってあるだけなのだろう。
 彼女が片づけを苦手だという、その原因の一端を見た気がする。
 シロナさんはわたしが考古学を持ちだした理由がさっぱりわからないらしく、きょとんとした表情で返事を待っている。
「さあ。なんとなくそうなのかなって。あの、ネタ出し程度でよければ、お手伝いしましょうか?」
「え。いいの?」
「大した助けにはならないかもしれませんけど。このあいだ、コラムがスズナさんの番だったときに、ちょっとだけ手伝ったんです。あれこれ質問して、まとまった量にふくらませられそうな話をいっしょに探して……」
「それよそれ。まさにそれが必要なの!」
 顔の前でぽんと手を合わせて、シロナさんが表情をかがやかせた。
 そういえば、先ほど聞きながしたラジオ番組のオープニング・トークで、今日はトピックを決めずにフリートークをすると言っていたように思う。コラムを書けるだけのテーマを探す、その一助になるかもしれないと思って、ラジオの音量を上げる。
 くっきり聞こえるようになったパーソナリティの、旅をしていたころとなにも変わらないおだやかな語り口を聞きながら、わたしはなんとなくあのころと変わったものを思いうかべた。
 いつでもおいでともらった合鍵、自分では飲めないままだけれどおいしいと言ってもらえるようになったコーヒー、つねにストックしてくれている紅茶。それからシロナさんそのひと。
 ちょっとだらしないところもあって、家を訪れても気づかずに放っておかれたりして、あのころ憧れていた、ただ凛としてうつくしかった大人は、もうどこにもいなくなってしまったのかもしれない。
 でも今のシロナさんのことを、もしかするとあのころよりずっと、好きだと思う。
「ねえ、ほんとうにお願いしてもいいの?」
 いいと言われることを知っているような、期待を隠しきれない表情で、シロナさんが言葉を重ねる。
 あなたと一緒だとなんでも楽しいから、なんだって構わない。
 それは口にせず、わたしはただ笑ってうなずく。