デイドリーム・デイライト
吹きすぎていく風に、ときおりつめたい粒子がまぎれこんで頬を撫でる。雨が降りはじめるまえの、なんというのだったか——とにかく地面から立ちのぼる、あのやわらかく湿ったにおいは感じない。
湖畔か川べりか、どちらにせよ水辺にいるのだ。思って、まぶたを持ちあげる。
ところが視界には砂も草も木も水もない、ごくシンプルな景色がひろがった。ひざをゆるくまげて座るあたしの周囲一帯をうす桃色の霧がつつみ、ぼんやりと停滞をつづけている。流動するでも大気に拡散してうすれていくでもない。そういえば、風はいつしか止んでいる。
予想をうらぎる光景が奇妙なのか奇妙でないのかどうかはさておき、なぜだかむしょうに気分がよかった。けさ、日ざしのまぶしさを予感して手にとった新品のサングラスが、ほこらしげにシャツの胸ポケットをたわませている。歩きやすさを基準に靴箱から選びだしたスクエアトゥのフラットシューズが、なじんだ感触で足先をつつんでくれている。
それから、なにより。あたしの正面にヒカリちゃんが、ちょこんと座りこんでいる。
万事快調だ。
そう浮かべたとき、はたと目が合う。待ちあわせ場所へまったく同時に到着してしまうときのように。恋人がやわらかく目をほそめる。そういう状況で、つねにするように。
そして言う。
「なにかわたしにしてほしいこと、あればなんでもどうぞ。言ってくれればなんでもできますし、なんでもしますよ」
してほしいこと。なんでもどうぞ。なんでもできます、なんでもします。
発言を反芻し、要素を噛みくだく手順をすませると、とおくへ旅だちかけていた自我の核心が呼びもどされるのがわかった。そうしてあたしがまずまっさきにしなければならなかったのは、喉の奥からこみあげるため息を押しころすことだった。
ああ、そういうことか。まったくばかげている。
内心でぼやきながら、「夢ね」とひとことだけをこたえる。
彼女は上目づかいにあたしを見あげたまま、目をまるくするでもぽかんと口をひらくでもなく、ゆっくり一度だけ瞳をまたたいた。角膜の表面をうるおすための不随意な運動ではなく、なにがしかの情動をあらわす所作でもなく、こういう場合はそうするものだからまばたきというしぐさの表面をなぞっている。そんな印象を受けた。
けれどまたたかれた目とふたたび視線が合って、わずかなぎこちなさがほんとうに存在したのかどうか、とたんに確信を見うしなってしまう。なにせ一瞬の空白をはさんでかしげる首の角度にも、まばたきを追って上下するまつげの密度にも、あるいはまばたき自体の速度にさえ、現実の彼女とことなる具体的な点を、ひとつとして見いだせない。
それでもひとたびそうとさとってしまえば、むしろふしぎに思えてならないのだった。いくら意識に芯がなかったとはいえ、直前までの自分が『彼女』を『ヒカリちゃん』と認識できていたことのほうが。
そういえば。雨の降りだすまえのにおいは、
「こんなにすぐ気がつかれてしまうなんて、ちょっとびっくりです。どうしてわかったのか、訊いてもいいですか?」
——ペトリコールだ。
「参考までに」
ふいにひらめくものの、夜のベッドで眠っていたのか、昼のソファでまどろんでいたのかは思いだせないあたしをよそに、彼女はつけくわえた。つくりものと呼んでしまうのはさすがにはばかられる。そんな内心を知ってかしらずか、あたしのよく聞きしった、ていねいかつのんびりとした発音で。
ヒカリちゃんではない相手、そもそも夢のなかだ、りちぎに返答する必要も義理もない。
ならべたてた理屈を持てあましてはいない、彼女はヒカリちゃんではないという感覚もある。それでも精緻な外見のもつ情報量は、そんなものをかるがると飛びこえる。聞きながしてしまうことなどできなかったし、こたえる口調までも、かってにやわらかくなるのがわかった。
「どうして……そうね。そんな身もふたもないこと、ヒカリちゃんはたぶん言わないからかなあ」
「ほんとうにそうでしょうか? まだ、聞かせたことがないだけかもしれないのに」
「今後、もし仮に。言う状況になったとしてもね」
いくら待ったところで、おとずれそうにない状況だけれど。そのつぶやきは胸中に落としてつづける。
「そんなふうに余裕たっぷりには言えないと思うの。顔、赤くなったりするんじゃないかしら」
指先になぞられた唇から、ふむふむ、と感心するような声がこぼれる。
彼女はかすかにうつむいたかと思うと、すぐにおもてをあげた。こまったように眉根を寄せ、うっすら頬を赤く染めて。すきまなく記号をしきつめた、絵に描いたような、完璧なまでの恥じらいぶりだった。奇妙な状況も忘れて思わず笑い声をあげてしまう。
「なるほど、勉強になります」
言いそえた彼女の表情が、こんどはいくらか自然な速度でおだやかなほほえみへ切りかわった。
現実の彼女もおなじ言いかたをしそうな、やけに説得力のある口ぶり。現実の彼女もふとしたときにのぞかせそうな、やけに説得力のある表情。けれどもこれは夢だ。平然と口にされるはずのない言葉やグラデーションのない瞬間的な表情の変化、種々の要素にあらためてその事実を飲みこみ、口角がゆるやかにさがる。
意識は鮮明で、自己への認識もあきらかで、けれども夢だ。とびきり、どころか人生でもっとも不可思議な。なにせ恋人のすがたをした別人にむかって、恋人を模倣する手ほどきをおこなっている。これ以上におかしなシチュエーションがそうそうあってたまるものか。
そしてそんな奇妙な状況に、よりいっそう奇妙な点がひとつ。
「夢なのよね、これ」
「はい、夢ですよ。なにかしてほしいこと、思いつきましたか?」
「ううん、ちがう、そういうわけじゃなくて。というかそれはもう訊かなくていいから……」
「うーん。わたしがこういうことを言うのもなんですが、損な性格なのですねえ」
「損?」
のんびりした口調にそぐわない唐突さと感触で飛びだした言葉におどろいて問いかえすと、彼女はやはりやけに説得力のある角度で小首をかしげた。一度たたえてからうすれもふかまりもしない基本仕様めいたほほえみをたやさないまま、「だって」と言った。
「すぐに夢だと気がついてしまうし。気がついたらついたでいろいろむずかしいこと、考えてしまうようですし」
「……むずかしいのかしら」
「わたしにとっては。きっと、わかっているのですよね。これはどこまでいってもただの夢で、なにをのぞんだとしてもなにができたとしても、ひとつも現実に影響しないこと。それならただの息ぬきとでも割りきって、好きなようにしてみたらいいのに、と思うのですけど」
これは夢で、ここでなにをのぞんだところで現実にどんな影響もあたえない。彼女が言うそれは、うごかしがたい事実だ。夢とはただそうあるだけの現象だ。夜のあと朝がくることに、風がまえぶれなく止まることに、理由をもとめてもしかたないように。
けれども、だからこそ、奇妙な点はよけいに奇妙さを増す。
「思うって、ねえ、それ。それなのよ」
「どれでしょう」
「もう夢だってわかってる夢よ、目がさめそうになったっておかしくないのに。ちっともそんな気配はないし、しかもあなたはずっと……なんというか、自分で考えてしゃべってるように見える」
自分の言葉に引きずられるように、夢というもののメカニズムについて考える。眠った人間が見る光景の根源は、記憶や感情を無作為に抽出しつなぎあわせたもの、もしくは無意識にいだく願望や、それに類するものであるという。
記憶、感情、願望。
無意識下のそういったものたちが夢として出力されるのならば、この夢の内容、つまり彼女をつくりあげたのは。時間を経るにつれいっそうはっきりしてくる思考に、その先がむやみな解像度のたかさで反響する。
「だけど夢っておおざっぱには自分の願望とか、記憶とかでできてるんでしょう。だからこれはあたしがひとりで会話してるようなもので、つまり……」
「つまり」
文末をのんびりとくりかえす声を聞きながら、こめかみに指をあてる。
これからこの関係はどう進展していくのだろうとか、あるいはしばらく浮きも沈みもせず、高度をたもったままの水平飛行をつづけるのだろうか、とか。
目前にいる彼女ではない、現実の、ほんもののヒカリちゃんといてふと息をつくとき、そんな思索とも苦悩ともつかない思案をまなうらにならべることはあった。
浜辺の波うちぎわにつくった砂の城の、あすのすがたへ思いを馳せるのと似ている。そう思っていた。そのときになってみなければ結果の知れないかわりに、現在のなにに影響するのでも、ましてや阻害するのでもない——そう考えていた、いまでも考えている。
けれどその実あれはひどく深刻な内容で、おまけにあたしはなにか、行きづまっていたのだろうか。こんな夢を見るくらいに? してほしいことをなんでもどうぞ、そんなことを、ヒカリちゃんに言わせるくらいに?
「……あたしがあなたに、そういうことを言わせてるの?」
口にしたとたん、夢のなかにあっては感じないはずの疼痛に頭がきしんだ。肌に接した指のはらでこめかみを一度つよく押すけれど、もちろん錯覚がやわらぐわけもない。
自己嫌悪をおぼえる。もし自分の言葉がただしいのなら、強烈に。
彼女はななめうえの中空と正面とをむすび、視線をいち往復させて言った。
「湖を、空から見たことはありますか」
湖。あっけにとられて単語を復唱すると、うまく聞きとれずに聞きかえしたものとでも受けとられたのか、こくりとうなずかれる。
ずいぶん脈絡がない。しかしいくらそう思おうと、いくらほかに気にかかっている点があろうと、あたしは彼女の外見と声から発信されるものをむげにあつかえないのだった。
こめかみの指をあごへ移し、結局顔からはなしてひざへ置く。この脈絡のなさがかえって夢らしいようで、妙な心地がしてくる。
「……通りすぎたことは、あったはず」
「通りすぎた。うえを、飛んで、ということですね。そのときに?」
「ううん。そういえば飛んでる最中って、ずっと正面を見てた気がするから」
「正面を」
「ほら、だれかの背中につかまってはこんでもらうわけでしょう。目的地とか、落ちないように気をつけるほうにばっかり意識がいって、景色を気にする余裕、あまりなかったの。なんだかもったいない気分ね。あらためて考えると」
「そうでしたね」
どの部分にふれたのかわからないふしぎな言いまわしをした彼女が、誤差程度に微笑をふかめる。
「……たとえば、かたち。地表をはなれて、とおく空から見おろしてみると、当然だけれど外縁に沿って、森がぽっかりとひらけている。だからみぎわの線がどんなふうにまがってつながって、湖のかたちをつくっているのかが、よくわかります。実際にまわりを歩いてみるより、もっとかんたんに」
「……なるほど?」
「それからなにより、湖面がよく見わたせるのです。底までのぞきこんでしまえそうなくらい、澄んでいること。あるいはまえの日に降った雨で、ところどころにごっていること。晴れた日には水面がゆれるたびきらきらかがやくのが、すこし風の吹いている日には岸へ寄せる、白い波が」
打ちかけた相づちを喉の奥へとどめ、ひととき黙りこんだ。
俯瞰した際、さまざまな表情をのぞかせる湖について。
彼女の語り口がいかにもうつくしいだろう展望にそぐわない、淡々としたものだったせいかもしれない。立てこんでいた頭のなかがいくらか整理される。
仮説をひとつひねりだすと、同時によぎる、あたしがそう思いこみたいだけなのかもしれないという可能性にはふたをして声にのせた。
「あなたは湖のことを、知りたい?」
「そばをはなれてしまいました。以前のようにちかくで見まもることは、もう」
そこまで言うと彼女は一度言葉を切り、例の、やけに説得力のある角度に頭をかたむけてつづけた。
「……この先、きっとないでしょう。だけど波もたたずおだやかであるのかどうか、知っておきたいのです。おおきく波うって荒れたりにごるようなことがおこるとすれば、おなじように」
「でもいまは湖のそばにいない、ううん、たぶんいられない、のよね。知ったとして、どうするの」
「問題がないのなら、なにも。けれどそうでないのなら。なにかあったなら、なにを差しおいても飛んでいきたいと、そう思うのです」
夢だからと納得してしまうにはちらばりすぎている違和感。あたしのうちからおこり、あたしの記憶や感情や願望をすくいとったとも思いがたい発言や会話。理屈に合わないことも脈絡のないことも、すべてなんらかの比喩とすればあるいはすじがとおるのではないか。
だからあたし自身が、湖という比喩でおおったなにかの全貌を、俯瞰することによって知りたがっている——そう考えたのに、話を聞けばきくほどにあらわれるあらたなピースが、解釈の糸口をとおざけていく。
これという根拠はない、しかしすべて比喩なのではないか、その着眼点がおおきく的を外している気もしないのだ。それでも漠然と、どこかでなにかを見おとした感覚がわだかまっている。まるで喉元までのぼりかけているクイズのこたえを思いだせずにいる、子どものように。
ついうつむけた視線の先で、あたりに停滞していたうす桃色の霧がかすかにゆらぎ、流動しはじめる。ごくゆるやかな速度で、あたしと彼女を中心とした放射状にひろがっていく。
このぼんやりした光景も、なにかべつの意味を内包しているのだろうか。思いながらのばした指先にはなんの温度も湿度もふれない。桃色のむこうにうすく落ちる影を撫でるようにしばらく手をひるがえしていると、やがて正面の彼女が「すこしはやいけれど」とつぶやいたので、顔をあげた。
「そろそろ、目がさめてしまうようですよ」
夢から覚醒しかけた意識のかたすみに現実の世界や朝の日差しをおぼえているときの、あの感触はなかった。夢の登場人物に言うことでもないと自覚しつつ、思わず「わかるの?」と目をまるくする。ひかえめな首肯がかえされる。
「だから、最後です。わたしにしてほしいこと、なにもないのですか」
「……あのね。何度訊かれても、こたえはいっしょなんだけど」
「ふふ、きちんとこたえてもらっていませんから。一度も」
「え?」
「はじめは『夢ね』って。二回目は思いついたわけじゃないと言って、結局べつの話に」
「ああ、そういえばそうだった、かあ……」
声音にも表情にも剣呑な色はいっさいなく、ひたすら穏和なままなのに、なんとなくやりこめられた気分で前髪を流す。
とはいえこたえは決まっていた。再三問われ、いまあらためてうながされた、だからあわてて考えるのではなく。
「……ないのよ」
意識したことなどなかったのに、いざふれてみればそのこたえがはじめから、もしかするとこの夢に落ちてくるまえから、ほとんど実感としてあたしのうちに根づいていたのだとわかる。
「してほしいことは、なにもない。してあげたいことならあっても」
言いおえたあたしと彼女とのあいだに、しんと沈黙がよこたわった。
「どうしたの」
つねに打てばひびくようだった返事が、はじめて止まっている。ふしぎに思って訊ねると、彼女はおおきな瞳を一度だけまたたいた。
表面をなぞっただけの機械的な所作に見えた前回と、ずいぶん印象がちがっていた。おもしろがるようにもおどろいているようにも見えて、だからはじめ、あたしはつかみあぐねる。この場が現実でないと指摘して夢が明晰夢へ転じた直後と、まったくおなじしぐさだということを。
「わたしのこと、呼びませんね」
「どういう意味?」
「名前を呼ばない。おなじ外見をしていても、あなたにとってわたしは、ヒカリではないから」
「……そうね」
彼女はふと腰を浮かせたかと思うとふたりの中間、桃色の霧のなかへ両の手とひざをつき、身を乗りだしてあたしに顔を寄せた。
この期におよんでも具体的なちがいは見いだせない。たしかめるすべはないものの、きっとまつげの一本にいたるまで、ほんもののヒカリちゃんとおなじなのだろうと思う。
けれど、それだけだ。あたしは現実のヒカリちゃんと差異のない精巧な外見を持つ彼女へ、たしかに沈黙や無視をきめこむことができない。かといって彼女を、ヒカリちゃん本人ととらえて接することもない。
かんたんにキスできてしまいそうな至近距離で、照れくささに頬を赤らめたり目をおよがせたりするのでも、ほほえみ以上の温度でうれしそうに頬をゆるませるのでもなく、ただ凪いだ視線をあたしへ向けている。そんなようすに、彼女が現実のヒカリちゃんとは別人なのだということをあらためて突きつけられ、また、気がつく。
「なんでもしていいですよ、と言っても、わたしにしてあげたくはならないのでしょう」
「うん。ごめんね」
「いいえ」
彼女が身を引き、もとの姿勢へもどる。その肩ごしで景色はまるで吹いてもいない風にながされるように、流動の速度を急激に増していた。
うす桃色の光景。もうそばにはいられないという場所を、とりかこむ周囲ごと見おろし、そのかたちをとらえ、湖面の状態を知りたがる彼女。比喩だと考えたこと自体は案の定まちがっていなかった、ただしそれはどうやら、あたしの内側から投影されたものではなく。
「ねえ、訊いてもいいかしら」
「こんどは逆ですね。はい、なんでしょう」
「どうしてこういう方法にしたの?」
彼女は上目づかいにあたしを見あげてほほえんだまま、やはり目をまるくするでもぽかんと口をひらくでもなかった。ただ中継映像のタイムラグじみた一瞬の静止をはさみ、「いつから?」と言った。
「最初から、って言えたらいいんだけど、たったいま。いまさらね」
「なるほど。……いちばんわかりやすいと、知るのにいいと思ったからです。そんなにふしぎでしたか?」
「そうね。あたしからするとだいぶ、なんというか、エキセントリックな……」
「おたがいさま、ということでしょうか。わたしがあなたたちをそう思うように、見た目をまねしても、すぐに気づかれてしまうように。あなたたちからもわたしが、むずかしく見えるのかもしれない」
うなずきかけて、どこかとおくで呼ばれる自分の名前を聞く。われながら名前と認識できたのにおどろくほど、まるでぶあついガラスをへだてているように不明瞭な声の出どころをもとめ、なんとはなしに顔の向きをかえる。
いつしかあたりには、みじかい草におおわれた地表があらわれていた。ぼやけた桃色とみずみずしい若草色の境目へ視線をはしらせ、拡散していく霧のむこうにいまあらわれようとしている、もうひとつあらたな色を見とめる。そうした瞬間、カーテンのすきまから差しこむ朝の空気にまぶたを撫でられるように、水中をただようさなかに水面の光をあおぐように、めざめの予感を、すぐそばまでちかづいているその手ざわりをおぼえた。
雨が降るまえのにおいは、ペトリコール。あたしが新品のサングラスをシャツの胸ポケットへ引っかけ、靴箱からあえてフラットシューズを選びだし、おとずれた場所は。そうでしたね、というふしぎな言いまわしのわけは。
いまさら順を追って思いだし、理解して、やはりいまさらたしかめておきたくなって、正面へ向きなおる。
「あなたなりにわかりやすい方法だったっていうなら、わるいことしちゃったわね」
「いいえ。たしかに想定とはちがいましたし、わたしにとってはやっぱりすこし、むずかしいけれど……」
「けれど?」
「勉強になりました。こういうやりかたもあるのだって」
「……そう。それじゃあ、わかったのかな。湖のかたちは」
「はい」
返事はごく淡々としたひと声だった。けれど胸の奥が一瞬、波うつようにふるえる。ひどくなつかしくて、ひどくいとおしい。その感情はどこまでがあたしのものなのか、どこからが彼女のものなのか。
「そばへ飛んでいく必要は、ありそう?」
明瞭になることはないだろう境目を考えながら言ったあたしは、この夢のなかではじめてのものを見た。いかにもヒカリちゃんが浮かべそうな説得力をもった表情ではない、基本仕様めいたほほえみでもない、はれやかな、満ちたりたような顔で笑って、首をよこに振った。彼女は、いや、目のまえのあなたは。
視野の四方から景色が泡のようなあらい粒子に変じて、急速に剥落していく。すっかりうすらいでほどけた霧のむこうから、白い光が一度つよくかがやき、それでもふしぎとまぶしくはなかったから、あたしはまっすぐにながめつづけた。
もうだれのすがたもない夢の終わりを。あるいは鏡のように陽光を照りかえす、波のないなめらかな湖面を。
*
吹きすぎていく風に、ときおりつめたい粒子がまぎれこんで頬を撫でる。雨が降りはじめるまえの、なんというのだったか——とにかく地面から立ちのぼる、あのやわらかく湿ったにおいは感じない。
湖畔か川べりか、どちらにせよ水辺にいるのだ。思っても、たしかめるのはおっくうだった。爪先程度を這いださせたばかりの暗がりへもう一度沈んでしまおう、そう決めた折、
「シロナさん、シロナさん」
なじんだ声に、二度つづけて名前を呼ばれる。語尾をのばした三度目でぬるい決意をあっさり追いやり、まぶたを持ちあげる。
そういえば、なにか夢を見ていた。ふいに思いだすものの、視野にかかるまつげの影に隠れてまぶしさをやりすごすあいだに、内容も手ざわりもおぼろげになっていく。一度まばたきをしてようやく決定的に目をひらくと、最後までからだの底に残っていた、夢を見たという実感さえもほとんどなくした。
木の幹に背中をあずけたあたしを見おろすヒカリちゃんのすがたが、ゆっくりと像をむすぶ。おなじ速度で把握する。ここは調査をする彼女についておとずれた、シンジ湖のほとりだ。あたしは計測機器をかかえて対岸へ向かった彼女を木陰で待つうちに、いつしか眠ってしまっていたのだった。
それから。
それから。なんだったかもうひとつ、思いだせないことがあるような。いくら頭をひねっても浮かんでくるものはなく、すっきりしない感覚も夢のようには消えていかずにとどまった。結局あきらめて目元をこすり、違和感のかわりに眠気の最後のひとかけらを振りはらった。
「……ごめん、寝ちゃってたわ」
「いいえ、こちらこそお待たせしました。あとはいろいろかたづけるだけだから……ほとんど、終わりです」
のんびりとした言葉にうなずき、ひとつおおきく伸びをする。それでひざをかがめたヒカリちゃんの後方、正面の光景に、ようやくきちんと焦点が合った。
海のそれとはちがうひかえめな波が寄せるみぎわに、かたづけるだけという言葉どおり、計器類がこじんまりとひとまとめにされている。霧もなく澄みわたった水上を、外周の森の落とす影がふちどっている。
湖面にそそいで乱反射する日ざしのなか、うす桃色の光がひとすじ、らせんの軌道をえがいて飛びあがった。ちいさなかたちへ収束した。あたしと目が合うと、ふたつの尾をひるがえしてくるりと回転した。
そして、笑った。
はれやかな、満ちたりたような、すくなくともあたしにはそうとらえられる顔で。
「エムリット?」
ずいぶんなつかしい名前だ。それなのに、先ほど別れたばかりのようになにげなく、無意識に呼んでいた。ヒカリちゃんがあたしの視線の先へ、はじかれたように向きなおる。そのいきおいに気をとられた一瞬のうちに、湖面のうえからはあらゆる痕跡がかききえていた。
「いたのですか?」
振りむくのが間に合わなかったのだろう。いぶかしむようにも呆然としたようにも聞こえる口ぶりで問われる。
「うん、いま、あそこを飛んで」
「よかった。よかったあ……」
エムリットがあらわれ、そして消えたあたりを指でしめそうとしたあたしは、胸に手をあててしみじみとくりかえす彼女に、つい首をかしげる。
「よかった?」
「ここでおわかれしてからずっと、会えずにいたのです」
「ずっと、って。一度も? まさか、うそでしょ、だって」
恋人はちからなく笑い、首をよこに振った。ひどく雄弁なしぐさに、あたしは継ごうとした言葉をつまらせる。
かつて殿堂いりを果たしたのち、戦いの場をバトルゾーンへ移した彼女は、旅をともにした相棒たちにくわえてエムリットの助けも借りながら、バトル・フロンティアの制覇を成しとげた。すべてが終わると、神話のポケモンをふるさとへかえした。つまりこの場所、シンジ湖へ。
あれからもう数年が経つ。けれど傷つけあって袂をわかったのでも、もちろん力を借りる用がすんだために、そばから追いやったのでもない。
——お礼を言って、おわかれしてきました。ひとりのところにとどまっているべき子じゃないから。
そう言ったのだ、そう言って、その後何度も、何回も。
「フタバに帰るたび、いつもここにきて。なにかと理由をこじつけて、湖の調査もふやしました。元気でいるかどうか知りたかったから……何回も湖畔から名前を呼んで、空洞にも、何度も何度も行って……だけど一度も……」
語尾がかぼそくかすれていく。手首を取って引くとからだが腕のなかへくずおれ、肩口にこてんと頭がもたれた。背を抱かれ、おなじように抱きかえすと、接した首すじがつめたいものに濡れた。
「知らなかった。何度も会ってるとばっかり思ってたの」
彼女とシンジ湖をおとずれるのは今日がはじめてだった。知らなかったからこそ、ほかの場所での調査に同伴するのとおなじように、かるい気持ちでついてきたのだ。かつての相棒を探していたなどと、ましてやずっと会えずにいたなどと、考えにのぼりもしない。円満に別れたのをよく知っていたし、彼女はいままで話にもそぶりにも、かけらもそんな想いをのぞかせなかったから。
あるいは隠していたのではなく、もう会えないとあきらめかけていたのかもしれない。
そう考えながら、ときおりふるえる肩甲骨のあいだを、ゆっくりとしたリズムでたたく。
「……けがはしていなかったですか。顔色は。元気そうでしたか」
「うん、笑ってた。たのしそうだった。あまり会ったことないあたしがそう思うくらいだもの、よっぽどだわ」
「そうですか、それなら会えなくても、安心しました……でも、どうして今日、急に」
彼女がぽつりとつぶやいたとき、胸の奥が何度も、波うつようにふるえた。何度も、何度も。波紋のイメージにかさなって浮かんだそのフレーズをなぞると、かってに声にのり、口から出ていく。
「……何度も」
「え?」
「何度もひとりで、心配そうに、ようすを見にきたんでしょう。きちんとおわかれしたあとに」
「……はい」
「ほら、たよりがないのは元気な証拠って言うじゃない。エムリット、もしかすると似たようなことを考えて、なにかあったのか、どうかしたのかって、かえって心配したのかもしれないわ」
「じゃあ今日、出てきてくれたのは。……わたしがひとりじゃなくて、シロナさんと、いっしょにいたから?」
「そうです。あたしといっしょにいてたのしそうにしてたから、エムリットも安心したのです」
わざと音量を落とした真剣な声音でささやいてから、「なんてね」とつけくわえる。
泣いたようにも笑ったようにも聞こえる吐息が、あたしの首すじを撫でた。しがみつくようなやりかたであたしの上体を抱いた腕に、一秒間ぎゅっと力がこもった。
そのとき、なぜこのタイミングなのか、とにかくひらめく。
雨が降りだすまえのにおいは、ペトリコールだ。
それから。
それから、もうひとつ。先ほど浮かべかけてあきらめたものとおなじかどうかは、わからないけれど。
「ねえ。湖を空から見たこと、ある?」
まだ涙の気配を残してくぐもった声が「湖?」と問いかえす。あたしも声でうなずきかえす。
「ずいぶん急ですね。でも、うーん、そうだなあ。うえを飛んだことはあっても、落ちないようにとか目的地はあっちとか、ほかのことばかり気にしていて。あまりきちんと見たこと、なかったような気がします。あらためて考えると、もったいないですね」
「あたしもまったくおなじなんだけど」
「ええ、見たことあるから、訊いたのじゃないのですか?」
苦笑まじりの、それでもふざけあうときの気やすさをすこしだけ取りもどした声を聞きながら、最後にとん、と背中をたたき、手を止める。
「ないの。でも、想像してみて。湖のかたちも、きれいなのかにごってるのかどうかも、空から見たほうが、よくわかるでしょ」
「……そうですね」
「エムリットから見るヒカリちゃんも、それとおなじなのよ。はなれたところにいるほうが、なにかあったとき、すぐにわかる。だから」
だから。
その先をつづけようとしたとき、凪いだ湖面のうえを、桃色の光がふたたびはしった。やはり目をこらす一瞬のうちに、見えなくなった。
「……だから。きっとなにかあったとき飛んでくるために、いまは見えないくらい、とおくにいるの」
腕をほどき、ヒカリちゃんが顔をあげる。束になったまつげごと指で目じりをぬぐってやると、濡れた瞳をぱちぱちとまたたいた。
「そうだったら……ううん、そんな気がします。ふふ。ずっと考えて、調べてるのに。ポケモンの気持ちって、むずかしいな」
そう笑う声を聞くだけで、顔を見るだけであたしの胸をつまらせる、ひどくなつかしくてひどくいとおしい、この感情はあたしのものなのだろうか。ふいに、まるでまだ夢のなかにいて自分自身を頭上から見おろしているような、あいまいな気分になる。
いや。あたしのものであるはずだ。
きっぱりと思いきり、「そうだったわね」とあたしは言った。
自分でもふしぎな気のする、けれど奇妙にしっくりくる言いまわしに、「だった、ですか?」とヒカリちゃんが笑った。