ちいさな夜のこと
テーブルランプの明かりをうけた空間が、昼と夜のあいだでまどろむような、ほのかな夕暮れ色に染まっている。
ドライヤーの吐きだした熱の残るうしろ髪を、手ぐしで背中へはらいながら室内を進む。ほどなくして立ちどまり、その場を見おろした。視線の先で恋人が、彼女をかたどってベッドのうえに隆起する布団の山と化していた。
三十分まえ、ならんで座っていたソファ、あすの大雨をつげる天気予報。出かける予定がなく、天気を気にする理由もないのを思いだして向かった洗面所で、寝るまえの身じたくをひととおり終わらせてもどると、リビングからは音もひとのすがたも忽然と消えていた。
今夜の光景を脳裏にぱらぱらと浮かべれば、恋人がファブリックのふくらみになってしまうまでのいきさつも、その先へかんたんにつながる。あたしがリビングをあけていた時間は、ひとひとりを眠りへさそうのに過不足のないながさだったのだろう。
だから彼女が先に寝いってしまった、端的にあらわせばそれだけの話であるこの状態に、一抹のさみしさ以上のものをおぼえるのでもなかった。なかったというのに、すんなりと腑に落ちて布団のはしをめくりあげようとしたその動作へ、あきらかに人為的な抵抗力がかかった。
起きている?
面くらい、瞳を二度またたいてから思いいたった。同時に、どうやらこれらしいという仮説も見つけた。ベッドのうえにただよう完全な沈黙は、眠っているならかえって不自然だ、そして。
「寝ちゃったの」
無言。
「はいりたいなあ」
「……だめです」
やはり眠ってはいなかった中身が、笑いまじりのあたしに、くぐもったそっけないひと声をかえした。
「いれてくれないの」
「……あと一時間、待ってください」
「そんなに? 湯ざめしちゃうわ」
テレビのニュースや天気予報へコメントするでもなく、かといってなにか話題を持ちだして語らうでもなく。よく言えばのんびりと、言いかたをかえれば怠惰にすぎる時間を経て、そのうえさらに時間をかけて髪をかわかしたあとだ。
湯ざめもなにもないでしょう、ふだんなら間髪いれずそんな指摘が飛ぶはずのところに、ひるんで息をのんだような音だけが落ちる。無言で布団に手をかけると、それを察したらしいふくらみがあたしの指先へ、ごそごそとあわてる気配を伝えた。
「だめ、とにかくだめです、わたしが寝るまで待って」
「うん、わかったわ。じゃあもういますぐ寝て、ちょうだい……ん、ちょっと。ねえ、なに?」
そこまで真剣に、念いりに、いったいなにをたくらんだものか。
いよいよ笑いをこらえるのがむずかしくなったあたしの口調は、言葉の終わりへちかづくにつれしだいにおもむきをかえ、最後はあからさまにいぶかしげなひびきを帯びる。制止にかまわず山をめくりあげようとする腕に、そうして持ちあげられようとする布団に——先ほどとはくらべものにならないほどの、おそらく全体重をつかっての切実なあらがいを感じて。
一度手をはなす。はたと不穏なものをおぼえ、名前を呼ぶ。棒読みの声が「あといちじかん」と言う。
らちがあかない。わざと足音をたてて一歩うしろへさがると、油断してちからをゆるめただろうすきを見はからい、できるかぎりすばやい動作でかけ布団をはぎとった。階下まで届けというがごときいきおいで、ベッドの足元へ放った。
山の中身はきゃあともひゃあともつかない、室内にほとんど反響しないまま消える悲鳴をあげると、あらわになったシーツのうえを迅速に横断した。ほとんど床へ落ちたがっているような位置での急停止と同時に、手足と頭をまるめて最大限コンパクトな姿勢をとった。最大限というより、最小限のスペースしかつかっていないというほうが適切かもしれなかった。
「ぐあい、わるいの?」
訊ねてからややあって、否定と思しい方向へちいさく首が振られる。『急に体調をくずした』に打ちけし線を引く。つぎへ。
「なにかあった?」
範囲をあいまいにした問いかけにかえる声はないまま、寝間着の襟元がかすかにこわばった。
体調不良はなく、ただなにか、があった。またつぎへ、進もうとしてそうできずに間をおいた。今夜この寝室でふたたび探りあてた仮説に、こんどはまったく正反対の感情がおこっている。
「もしかしていやになった、その。……最近の」
やっとの思いで声をしぼりだし、それきり押しだまった。
これと言えるきっかけが見つからないかわりに、自覚だけはあった。このごろいちじるしく、密度を増していた。唇の表面を合わせるだけのキスをしたり、そうかと思えばはなれたのちに肩があさく上下するほど呼吸を溶かしあい、混ぜあわせ、おたがいの背中や首すじへくすぐるように、ときにはすがるように指をはしらせる。そういうふれあいともじゃれあいともつかない、ふたりで眠りにつくまえのスキンシップが。
今夜はそれが趣向をかえたものとばかり思っていたけれど、どうやらあたしのかんちがいだったようだ。あるいはそもそもふれあう、じゃれあうと思っていた時間自体が、ひとりよがりにすぎなかったとか? ——その考えに、背骨を駆けおりる冷感をおぼえたとき、ささやかな音に鼓膜を揺られた。
明け方からと予報されていた雨が、待ちきれずに降りはじめたのか。とっさに思って窓へ顔を向けたあたしは、すぐにそうではないのをさとって恋人の背中に視線をもどした。
瞬間、一連のしぐさが意識へかかっていたくもりをぬぐいでもしたように、ごく唐突に気がついた。言葉を発した折に髪が流れてのぞいた耳の、夕暮れ色のなかでもそれとわかる赤さに。
「……なったのじゃ、ないです、いやに」
おかしな語順は、くりかえされたおなじ文章の途中だけを聞きとったせいだった。こんどは言いおえた彼女が、それきり黙った。
シーツに乗りあげてスプリングをきしませる。寝間着の襟元はますますぴんと張ったけれど、かまわずちかづいた。
「お願い、こっち向いて」
距離をつめて直接吹きこむようにささやくと、肩のふるえにうう、とみじかい声がつづいた。またしばらくの間をおいて、ひどくおもたいものをどうにかこうにかうごかそうとするようなぎこちなさで首をまわし、ヒカリはおもてだけであたしを振りかえった。
耳の状態からすれば意外なほど色の染みていない顔が、正確にはそこに浮かんだ表情が、あたしにべつの光景を思いださせる。リーグのスタジアム。熱気と歓声。向かいあった彼女の。
「……ねえ、ちょっと。なんて顔してるの」
「どんな……」
「リーグに来たときの顔」
「え、うそ」
あわてて両手を頬にそえたところで印象の要点をになう、強敵とのバトル中じみたするどい眼光はまったく隠せていない。それを口にしないかわりに、吹きだしかけるのをこらえながら「ほんと」とだけ言った。寝間着の肩へ手をかけてそっと枕に倒した。
抵抗もなくころがされてあたしをあおいだヒカリが、まるめていた手足をシーツにほどいて息をつく。表情も同様に、とまではいかなかった。けれどぎこちなさを残しつつも、鋭利さを感じさせない程度にはゆるんだ。
「……おなじくらい」
「うん」
「緊張してる、かも」
「緊張?」
「……あの、わかってますよね」
口角と語尾をわずかにあげたあたしへ、ヒカリはそれだけ言って眉を寄せた。どうやらなんの説明もなしに布団からしめだそうとしたのが弱みになって、うそぶく相手を突きはなしきれずにいるらしい。
しめだされようとしていた、それはほんとうに、どうでもいいのだけれど。ただひやりとして気を揉んだぶん、ようやくことのしだいが見えてきたいま、言葉で安心を得ようとするくらいはゆるされるのではないか。
「わからない」
「それはぜったい、うそです……」
「わからないから」
くりかえして前髪ごしのひたいに唇を寄せ、「言って」とささやく。まつげの感触がおとがいを撫でおろしていったきり、もどらなかった。ふれた時点でとうに焦点なんてぼやけているのに、それでもまぶたをふせたらしい。わかりきっていることを口にさせたがるあたしと、本質的にはおなじ行動だ。そう思ったから、目をあけてとも見てとも言わなかった。
「……シロナさんが髪をかわかしにいって、ひとりになったら」
「うん」
「急に、先の。キスとかの先のこと、考えて。意識しちゃって」
「うん」
「あの。いやなわけじゃないのです、ほんとうに。ただ」
「ただ?」
「どうしたらいい、のか、わからなくて、たまらなく……」
たどたどしくとぎれる語尾を、呼吸ごとすくいとるように口づけた。唇なんて数えきれないほどかさねている、それでもふれてはなれるたび、接触がふかまるたび、全身をはしるしびれるような感覚が加速度的にかさを増していく。あたしのほうがどんどん、たまらない気分にさせられていく。
今夜はじめて気がついたはずはなかった。すぎていったいくつもの夜、なんの考えもなくただふれあいをふかめていた、そんなわけもなかった。毎夜、夜ごと、ずっと意識していた。この先、あたしたちがいったいどうなるのか。ただこれというきっかけもないまま、なだれこむようにその線をこえるには彼女がたいせつすぎたから、こちらがわにとどまっていただけのことで。
ずっとうかがっていたそのきっかけが、いま目のまえに、腕のなかに落ちてきている。ふるえる指と唇で、かすれる声で、ひとつずつたしかめていく。
「……いやじゃないのよね」
「いやじゃ、ありません」
「これは?」
「……です」
「こうするのは」
「は、い」
「ここも……」
ふいに名前を呼ばれ、手を止めた。顔をあげた。見なれた部屋の、見なれたベッドのうえ、見なれた夕暮れ色のなかで、はじめて見る表情の恋人が、あたしを見かえした。
「電気、消して」
「それはあたしが、いやなんだけど。……うそ、冗談よ。なんて顔してるの」
「こんどはどんな顔、ですか」
こたえる前に身を乗りだし、テーブルランプのスイッチを押した。
「見えなくなったから、もう忘れちゃった」
それもうそだった。きっと万が一忘れたくなっても、忘れられないだろう。なんて顔、がどんな顔だったのかも。この会話が今夜かわす、最後の意味あるものだったということも。