あなたが教えてくれること

 シロナ先生の手は水が低いところへ流れるようによどみなく、なめらかに紙の上を動いていく。丸、レ点、丸、丸、丸、レ点。
 思うに彼女の頭は歴史がつまったデータベースみたいなもので、それにのっとって公正な判断がくだされている。そうでもなければこんなにすらすらと正解か不正解かがわかるものか、そんなことを考えながら机に頬杖をついて地球儀を見ている。
 プリントの採点があるけどすぐに終わるからといわれて、放課後、ほとんどシロナ先生の個人スペースのようになっている社会科室にやってきた。実際枚数は大したことがないように見えるし、そんなに長い時間待っているわけでもない。
 でも何もすることがないのはどうしたって退屈で、邪魔になってはいけないと思って口をつぐんでいる時間は間延びする。そんなこと彼女は気にもとめないだろうとわかっているのに、炎がうすくとろけたような夕日のなかできらきら舞う埃をちいさく揺らすのさえ恐れて、なんとなく息をひそめている。
 運動部の外周のかけ声が開けはなした窓の下を通りがかり、救急車のサイレンのようにだんだんフェードアウトしていって完全に聞こえなくなったのと同時に、赤ペンが紙の上をすべる音は止まった。うそみたいなタイミングに少し驚いて、わたしは見える範囲の国の首都を思いだす一人遊びをやめた。
「おまたせ、思ったより時間かかっちゃった」
 プリントのはしをトントンと揃えて、先生は穏やかに笑った。
 退屈とか間延びした時間とかいっておいてなにを今さらという感じだけれど、客観的に見れば大した時間はかかっていない。わたしが同じことをやろうとすれば答えの確認にいちいち手間どるはずだから、そう考えると慣れもあるとはいえ教師はすごい生きものなのだと思う。先生たちの脳内で電気信号が行きかい、正しく冷徹な答えを導きだすのをイメージする。オーバ先生あたりは例外かもしれないが。
「ううん、ぜんぜん待ってないです。早いなって思ったくらい。……先生、丸つけするときって、答えはぜんぶ覚えてるの?」
 少しうそをついた。同じ空間にいるのにかまってもらえないのが寂しくて、かといってそう思っているのが伝わって困らせるのは嫌だった。もうわかってしまっているのではないかという懸念から、追及するすきを与えないように無理やり質問をつなげた。教師は生徒の質問に答えずにはいられないものだというのを知っているから。
 ほら。
「うーん。答えというか、問題を見れば答えは浮かぶの。これは市販の教材だから問題をぜんぶ覚えているわけじゃないんだけれど、何枚かおわればなんとなく、ね」
「みんなそんなことができるんだ?」
「いちいち答えを確認してたら、いくら時間があっても足りないわ。あたしみたいに好きな分野を教えてる教師は当然として、ほとんどのひとはできるわよ。でなきゃ仕事にならないでしょう」
 やっぱりわたしの提唱する教師脳内データベース説はあながち間違っていなかった、感心しつつちょっと興奮する。寂しかったのも焦っていたのも都合よく忘れて、ただ単純な喜びが胸を満たす。なにせわたしは子どもなので、自分でも驚くくらい簡単に一喜一憂できるのだ。考えたことが当たっていておまけに先生がこっちを向いてくれたとなれば、感情が加速するにきまっている。
「そうなんだ、すごい! ねえ先生、いきなりだけど、どうして教師になったんですか? 考古学が好きなら、研究者になるのもありだったんじゃないかとおもうんですけど」
「なあに? 今日はずいぶん知りたがりじゃない」
 表情こそ苦笑いだけれど、からかうような言葉選びで訊かれることをうっとおしがっていないのがわかった。わたしは頬から手を引きはなして、先生のほうへ物理的に身を乗りだした。あなたのことが知りたい、知りたがっているというわかりやすいサイン。彼女は教師であるまえにシロナというひとりの大人で、それはわたしのそんなサインを無視できないということに他ならない。
「……そうだなあ。調査も研究も好きだけどね、部屋にこもってそういうことするっていうの、なんだか性に合わなくて」
「それで?」
 言葉には続きがあるようだった。首をかしげて暗に提示されたそれを求めたわたしに、シロナ先生はやわらかくほほえみかける。口にしない言葉尻をわたしがとらえるのを彼女は喜ぶ。そうだといわれたことはないけど、様子を見ていればわかる。
「あたし、自分の好きなことは他人にも伝えたいタイプなの。だからあたしの授業で歴史を好きになってくれる子がいたら嬉しいし。それになにより、素直な子どもって、好きだから」
 最後の言葉をいうときの彼女はいたずらっぽい笑いに表情をかえていて、その髪を窓から吹きこんだ風が揺らした。
 ばれていたと気づいた。寂しいのもそれを隠したのも引っくるめてすべて。そのうえでなにも指摘せずそんなことをいってくる大人のずるくて美しい顔を見つめた。どうせ知れていることなら、もう少し近づいてもう少しだけごまかそうと思って口を開いた。
「素直じゃない子どもは、嫌い?」
 なまぬるい風に髪を乱されながら、琥珀のように鈍いきらめきを灯した瞳がまっすぐわたしを射ぬく。たぶんその光は、彼女の頭の中のデータベースが答えを探して奔走している証拠なのだ。わたしがほしい言葉を確実にくれる、そんな能力の根拠が、彼女の目に垣間見えている。
「あなただったら、素直じゃないのも可愛いとおもえるの」
 吸いこんだ空気は音にならず、触れてきた唇と唇のあいだにほどけて消えた。世界は急速に遠ざかり、すべてのものが色を失うそのなかで、わたしたちだけが息をしていた。