甘い炎
出会いたくなかったといえば嘘になるが、出会いたかったかと訊かれるとそうでもないなと思った。わたしはこれまでこのひとがいなくても普通に過ごすことができていたのだし、そう考えるとむしろ出会ってしまったのは不幸であるとさえいえるかもしれない。
ひとが変わってしまったみたい。そう評したのはコウキくんだったりジュンだったりしたけれど、それをいちばんわかっているのは他でもないわたし自身だった。
こんなはずじゃなかったのに。
「……え、なに? ごめん、なにかいった?」
夢からさめたようにぼんやりとした声。
イッシュ史について書かれているとかいう分厚い本に栞をはさんでソファのひじ掛けに置き、シロナさんは自分のひざを枕にしているわたしを見やった。どうやら声に出てしまっていたらしい。
このひとがなにかに集中していると周りが見えなくなるタイプでよかった、と今だけは思う。たぶんわたしの声は燃えていた。愛やらなにやらをぶちこんで、得体のしれないどんよりした色で煮えたぎっていた。とても聞かせられたものではなかったはずだ。声を出すわけにいかないので首を横に振り、視線すら燃えているかもしれないと恐ろしくなって目までつむった。紗幕の張った暗闇のなかで、シロナさんの香りと声と肌だけがわたしの感覚に働きかける、そういう世界を一瞬だけ夢想する。悪くないと思ったけれど姿が見えないのはいやだなと考えなおした。
当初想定していたよりもずっとひどく、わたしはこのひとに参っていた。まったく驚愕に値することだが、今のわたしは彼女がいないと息をするのさえおぼつかないような気がするのである。当のシロナさんはもちろんそんなことを知らないので、用事があればとくにうしろ髪引かれる様子もなく出かけていく。わたしはいつも愛想よくその背中を見送りながら、追いかけて抱きついて胸の内を告白してしまおうかという思いに駆られる。しかしそうできないので余計に心臓が締めつけられ、炎は温度を増してもはや身を焦がすまでになるのだった。
ふいにシロナさんの手がわたしの髪を撫でて、その手つきと同じように優しい声が「きりのいいところまで読んだし、甘いものでも食べる?」とささやいた。彼女は子ども――不本意だがそのなかにはわたしも含まれているらしい――とは甘いものが好きで、それさえ与えれば例外なく喜ぶいきものなのだとかたく信じていて、ことあるごとにこうして提案してくる。
きりのいいところまで、なんてうそだとわたしにはわかっていた。彼女は本を読みはじめたら最後まで読むタイプだからだ。読みたいなら読んだらいいじゃない、とささくれだった感想を抱くけれど、子どもは甘いもので喜ぶ説を愚直に信仰しつづけるシロナさんがなにか尊いもののように思えて、というよりはそのさまがただかわいらしいので、結局いつもそうするように頷いてしまう。
甘いものが好きなのではなくて、喜ぶわたしを見て喜ぶあなたが好き。まだ声は熱を残しているから、そういいたいのをぐっと飲みこむ。わたしのなかではそうやって飲みこんだ言葉たちがこぼれ落ち、冷えてかたまっている。いくつもいくつも。
「今日はいいものがあるのよ。出先で見かけて、つい買ってきちゃった。取ってくるから待っててね」
そういうとシロナさんは上半身をちょっと無理な体勢にかがめて、ようやく目をひらいたわたしの額にキスを落とした。触れるか触れないかほどの軽いそれに、わたしは彼女が家を出ていく朝を思いおこして泣きだしそうになってしまう。わずかでも離れなければいけないことを思いだすのは耐えがたい。しかしわたしの体は意思よりも現実に対して従順に動き、起きあがってシロナさんのことを解放した。我ながらよく隠しおおせていると感心する。
ぎりぎりで持ちこたえた涙腺が今度こそ決壊するとわかっていたので、キッチンへ歩いていく背中は見なかった。別荘の前の石畳をヒールで歩くときのコツコツという音ではない、部屋履きのたてるため息のような足音だけが、わたしの焦燥と寂寥をかすかにやわらげる。
「……こんなはずじゃなかったの」
ももに頬杖をつき、改めて意識的につぶやいてみると、それは思いのほか深刻な響きをともなって空気を揺らしたので、声の熱はさすがにもう冷めていたが、どちらにせよさきほどシロナさんの前で口を開かなくてよかったと思った。
――もちろん今生の別れなどではないからして、実際には時計の針がいくらも進まないうちにシロナさんは戻ってきた。離れるときの苦しみは、きっとこのときの喜びを大きくするためにあるのだろう。わたしは毎回それを忘れ、毎回思いだす。
シロナさんがお盆から取りあげた白い器を受けとり、続いてスプーンも受けとった。
「これ、プリンですか?」
そのように見えたので、一応訊いてみる。わたしの知っている、ふたりでよく食べるプリンを基準にして考えると、それはなんというか異様な風体をしていた。表面が茶色く泡だち、ところどころ焦げていて、それでいて全体がつやつやした光沢をもっている。きんと冷えたココット皿の感触が手のひらに気持ちいい。
「ううん、クリームブリュレ」
「クリーム……えっと、もう一度いってみてください」
「クリーム・ブリュレ。発音しづらいわよね」
名前をていねいな発音でくり返しつつ、彼女はわたしの横に腰かけ、
「ちょっと失礼」
なにが、と思う間もなく手にもったスプーンでわたしのクリームブリュレとやらをつついた。
器の冷感とは裏腹にあたたかそうな色につやめいた表面は、さくりと軽い音をたててこわれる。その下からこがね色の層があらわれ、ようやくおぼろげながらこのデザートの正体をつかんだ。そのままシロナさんのスプーンを顔に近づけられて、条件反射のように口を開く。
「ん。わあ、おいしい」
咀嚼するまでもなくカスタードは喉の奥にふわりと消え、舌に残ったまろやかな甘さを追うようにほろ苦いカラメルが溶けた。クリームブリュレはよきものだということを知ったわたしの唇から、つつみ隠さぬ感想が漏れた。シロナさんはそれを見て自分のぶんをひとくち食べ、満足げにほほえんだ。
「でしょう。プリンと似たようだけど、ちょっと凝っててすてきじゃない? 上から砂糖をかけて、それを炙るんですって」
「うん」だか「ふむ」だかあいまいな声を返して、ひび割れておらずきれいなままの、わたしのそれを見つめる。炙る。それではこの芳しい気泡は、砂糖が火に焼かれてあげる悲鳴なのかもしれない。慟哭はとだえやがてかたまり冷やされて、こうしてわたしたちの前にやってくる。カラメルを砕いて何口か食べ、器をテーブルに置いた。甘くて片手におさまるほど小さいあたり、わたしの感情とは大違いである。
「自分で作ってみたいかも。何回でも食べたいなあ」
「じゃあ今度お願いしようかな。作りかたも調べてみる……ねえ、そうとう気にいったのね。買ってよかった」
「うん。ほんとうに、おいしい。大好き」
慈愛のかたまりのような表情を見ていたら急にせっぱつまった気持ちになって、シロナさんに抱きついた。
「それって、どっちが?」
「どっちもです」
シロナさんはくすくすと笑って、しかしわたしのことを抱きしめかえしてくれた。わたしたちの間には大きな隔たりがあり、ときおりその隔たりはシロナさんをわたしの手の届かないところに追いやる。それでも少なくともこうして触れている間は、彼女はわたしのそばにいてわたしを見ている。見つめあっていられる。
肩に頬をよせながら考える。こんなに押しつけがましくなるはずじゃなかったのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。わたしはまぎれもなくシロナさんを愛しているけれど、その愛はたぶんシロナさんを幸せにしないだろう。クリームブリュレの甘さのようには。
「好き。好きです、シロナさん」
「知ってる。あたしも好きよ、ヒカリ」
うそだ。
わたしがあなたのことをどれくらい好きでいるのかなんて、あなたにはわからない。言葉がふらせる優しさが、わたしに触れて燃えていくのが見える。
こんなはずじゃ、なかったのに。わたしは唇の動きだけでつぶやいた。