ピーチ・アンド・オレンジ
今夜から澪ちゃんがいない。
澪ちゃんがいないということはつまり、家の中は真っ暗で、玄関にはちょっとした外出の時に履くためのサンダル以外、靴がひとつも置かれていないはずだということだ。
今日は一日中、仕事中もずっとそのことを考えていた。つまり澪ちゃんの不在ゆえにどこも乱れていないであろう我が家と、雑然とした我が家に心乱されずに済む、帰宅後の自分のことを。
鍵を回して玄関のドアを開けると、はたしてそこには想像していた光景そのままの室内があって、私は思わず頬がにんまりとゆるむのを感じた。
澪ちゃんは同棲中の私の恋人であり、恋人のひいき目をさしあたり無視してフラットに評価するなら、大変にずぼらなひとだ。
なにせ澪ちゃんがいたら、使っていない部屋のテレビや電気が煌々と光っていたはずだし、玄関には仕事用のパンプスが脱ぎすてられてそのまま、あさっての方向を向いて転がり、その上なぜかスニーカーやミュールまでもが取りだされていたことだろう。私は自分がそこそこ几帳面だという自覚はあったものの、彼女と生活を共にするうち、自分の几帳面さに『そこそこの』ではなく『なかなかの』という修飾を付けくわえてもいいような気がしてきていた。
仕事を終えて帰宅した瞬間から、恋人の散らかした痕跡をたどって部屋を片づけなければならない億劫さを思えば、彼女が出張に出かけて週明けまで帰らない寂しさなんて、ごくちっぽけなものに思える。
人は本当に見た目じゃあ分からない。新宿二丁目で澪ちゃんにはじめて出会ったとき、彼女はネイビーのパンツスーツを隙のないコーディネートで着こなしていて、しびれるくらいに格好よかった。断言するが、外での彼女だけを見て私生活のこのありさまを想像できる人間なんて、ひとりもいないだろう。
かくいう私自身も彼女と電撃的に恋に落ち、とんとん拍子に同棲までこぎつけたので、『想像できなかった』うちのひとりということになるのだけれど。
私はそこまで考えてから、家でだけずぼらなキャリアウーマンが、出張先のビジネスホテルで荷物をめいっぱい広げてくしゃみを連発している姿を思いうかべた。その想像にひとりで吹きだしながら靴を脱ぎ、その靴を揃えてシューズ・ボックスにしまった。
今夜から澪ちゃんがいない。
もう一度その事実を考えると、その言葉はまるで陽の光の下で活字を見たときのように心の中に浮かびあがり、きらきら光って消えた。
夕飯も入浴も済ませてしまってから、買ってきた缶チューハイのプルトップを開ける。
あまりアルコールに強くない私は、夜に飲みすぎるとすぐ次の日に響いてしまうので、晩酌はもっぱら休日前夜の習慣だった。缶を傾けてひとくち飲むと、桃とオレンジと炭酸とアルコールと、とにかくさまざまな味がまぜこぜになって舌の上で爽快感に変わり、喉の奥へすべり落ちていった。
手癖で点けたテレビのチャンネルはバラエティ番組に合っていて、最近なんとかいう賞レースで優勝した、これまたなんとかいうコンビ芸人が、ひな壇でエピソードトークを披露している。
お笑いが好きな澪ちゃんなら、そのコンビの名前も賞レースの名前も、はてはボケとツッコミそれぞれの名前までも、すらすらと答えてみせたかもしれない。だが私にはできない芸当である。
名前も実績もほとんど知らない芸人のエピソードトークは、なんだか頭の中を馬耳東風に通りすぎていくようだった。特に笑いが漏れるでもないまま、番組の流れはいつのまにか変わっている。別のタレントが画面に大写しになったタイミングで、私はテレビを消した。
よく考えてみると、そもそもバラエティ番組のむやみやたらな賑やかさは少し苦手だったし、出演している芸人にだって興味はない。それなのに手癖になるほどテレビを点けていたのは、いつも一緒に休み前の晩酌をする澪ちゃんがそれらを好んでいたからだ。
澪ちゃんもそうお酒に強いわけではなく、缶チューハイでも何本か飲むとほろ酔いになって、この芸人はこうだとかああだとか、おもしろおかしく品評してみせた。私はテレビを観るよりもむしろ、その話を聞いているほうが楽しくて好きだった。
――どうも澪ちゃんのことばかり考えているようだ。
かぶりを振ってその思いを打ちけし、今夜から澪ちゃんがいない、という魔法の呪文を口に出さずとなえた。
私はずぼらな恋人の不在を、せいいっぱい満喫しなければならない。義務感のような思いが心だけでなく体にも満ちていくようで、何本か買ってきた缶チューハイは結局一本しか空にならなかった。
おかしい、思っていたのと違う気がする。
そんなもやもやとした疑念が確信に変わったのは、ベッドに入っていよいよ眠りにつこうとする段になってからだった。
私が一日の中でなによりも好きなのはきちんとベッド・メイキングされたシーツの上で行儀よく眠ることで、なによりもうんざりすることはその逆だ。それでいうと澪ちゃんは寝相が悪く、おまけにしょっちゅう寝返りを打って体の下に布団を巻きこむので、私の快適な睡眠にとってはまさに天敵ともいえる存在だった。
だから澪ちゃんのいないベッドで眠るということは、本来なら余計な靴のない玄関よりも、化粧水を取りだしたまま開きっぱなしになっていない洗面所のミラーキャビネットよりも、私をほっとさせる事実でなければならないはずなのだ。
ところが現実はどうかといえば。
整然とした家のこれまた整然としたシーツの中で、私はちっとも眠気がやってこないことにひどく焦っているし、その焦りの中では、今日何度もとなえた魔法の呪文にも、まったく心が躍らない。
その上なんの変哲もないダブルベッドの中がやたらに広く、寒々しく感じられる――そんな感覚さえ覚えたところで、私は潔く認めることにした。
つまり澪ちゃんの不在が、散らかった部屋よりもぐしゃぐしゃにされたシーツなんかよりも、はるかに耐えがたいということを。
認めてしまうと、目からうろこが落ちたような急速さで、いつもは体温の高い彼女に抱きついて眠りについていたことを思いだした。ひとりなら観もしないテレビを点けるのが手癖になっていたように、それはあまりにも私の身になじみすぎた動作であり、あらためて自分にそんな習慣があると自覚するのは、まるで自分の体を上から眺めるような奇妙な気分だった。
もちろん、それを思いだしたところですぐに眠れるわけでもないのだけれど、胸中にすとんと落ちてきた『澪ちゃんがいなくて寂しい』という感情は、眠れない私の焦りをいくらかやわらげた。
澪ちゃん、早く帰ってきて。靴はしまわなくていいし、テレビも電気も点けっぱなしでいい、とは言わないけれど、少しの間なら目をつむるから。だから早く帰ってきて。
私はテレパシーで届けとばかりに心の中でつぶやいてから、家でだけずぼらなキャリアウーマンが、出張先のビジネスホテルでシーツを乱しながらくしゃみを連発している姿を思いうかべた。その想像にひとりで吹きだしながら目を閉じ、ベッドの中で恋人の代わりに大きく寝返りを打った。